一応、オフで出したアサ菊小説本『悠遠の彼方から孤独な君へ』の設定です。でも、読んでなくても無問題(だと思う。)
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ぽすんぽすんという軽い音がして、襖が向こう側から叩かれる。
「きーく」
間を置かずして呼ばれた名前に、部屋の中で蹲るようにして布団を被っていた菊の肩がわずかに揺れた。
独特な節回しで呼ばれる名前。まだ会って間もない相手ながらも、強烈な印象が刻み込まれていてそれが誰かなんて分からない菊ではなかった。1年ぶり、2度目の相手。
『彼と同じ』黄金色の髪を持つ、年若い国。
「入るよー。キク」
こちらの返事を待つ気配もないまま襖が開かれた。
「まったく。いつまでたっても来ないから、ここまで来ちゃったじゃないか」
調印場所はエドじゃなくヨコハマだろう?
にこにこと笑う邪気のない笑顔は、見るものを脱力させる力がある。それも相手の手の内だとしたら、相当曲者だ。悪びれない相手に、菊は被っていた布団を諦めたように畳の上へと落とした。
「・・・・・アルフレッドさん」
慣れない名前は、発音することすら難しい。それでも前回、気に入らないからと目の前の相手に何度も何度もそればかり練習させられた記憶は1年たった今でも体が覚えているようだった。
「やあ、キク。久しぶり」
「・・・お久しぶりです」
でかかったため息を飲み込み、居住まいを正して頭を下げる。
ずかずかと室内に入ってきた彼は、周りを見渡ししかしそこに腰掛ける場所がないことを確認すると僅かの躊躇のあと菊に習って畳の上へどかりと座り込んだ。
「キクがいないとつまらないんだぞ」
まるで子供のように頬を膨らます相手に、はぁ、すみません。と気のない返事を返す。人で言うならば孫とでも言えるほど年の離れた相手は、決して幼いだけの存在ではない。騙されてはいけない。この相手は、この数百年どの国もなし得なかったことを可能にするほどの力を持った相手なのだ。
1年の猶予をもってしても阻止できなかった開国は、誰よりも未熟であるはずのこの相手が奪い取っていった。
世界が利権を我が物にしようと虎視眈々と狙っていた、東の小さな島国を。
黒い服を着た洋装の軍人たち、見慣れたはずの湾に浮かぶ見慣れない黒い大きな帆船や外輪船。特に蒸気で動く外輪船から立ち上るもうもうとした煙は、廻船と比べれば比較にならないほど異様な圧倒感があった。
さらにその周り。小さな湾の内側にひしめくように浮かぶ小船は、遠くから見ると餌に群がる蟻のようだ。
あぁ、だとしたら餌はこの自分なのだろうと菊は自嘲気味に思う。
浦賀の湾を一望できる丘の上に立ち眼下に広がったその光景を見下ろし、菊は心が冷えていくのを感じていた。行かなければならないと分かっていたはずなのに、自然と足がその場から離れる。
引き止める従者の声も聞かず、菊は江戸の屋敷へと取って返していた。
別に、それほどあの場所で自分が重要なわけではない。いなければいないで、後は彼らがやってくれるだろう。だから、特に杞憂もなく以前のように部屋に篭ろうと思っていたのに。
この年若い闖入者はそんな菊の様子などお構いなしに、ずけずけと踏み込んでくる。まるでもう、菊の逃げ場などどこにもないのだとでも言うように。
「あなたこそ、横浜に行かなくてもいいのですか?」
「キクがここにいるんだ。キクの機嫌をとるのが俺の仕事なんだって彼には言われているからね」
そうですか。
どの道、今から浦賀へ向かったところで調印に間に合うわけが無い。それを分かっていて、彼もここにいるのだろうが。
「いいかげんに諦めればいいのに」
はるか年下の相手に諭すように言われぴくりと菊の肩が揺れる。けれど、その感情の浮かばない面に変化はない。
「開国するって事実はもう変わらないんだから」
そんで、俺のとこの船に水とか食べ物とかもらえればいいなーって話なんだし。あ、もちろん色んな珍しいもの持ってきてあげるから。絶対買って損はないよ?
どの口がそれを言うのか。そんなことを当たり前のように言える彼の厚顔さが多少羨ましくなってくる。見習いたいとは思わないけれども。
けれど前回のアルフレッドの来訪で多少なりとも彼の扱いを把握していた菊は、そんなことでいちいち動揺したりしない。聞いている振りをしながらも適当に相槌を打っていればこの相手は満足するのだから。だから、あいまいな微笑を浮かべ「そうですか」と言質をとらせることのないよう適当な返事を返していた。いったいどちらがどちらの機嫌をとっているのか分からないと思いながらも、アルフレッドの言葉は菊になんら影響を与えるものではなかった。
次の言葉を聴くまでは。
「それとも、君の上司が認めた相手が俺だってのが不満?」
アーサーじゃなくて。その嘲笑を含んだ声に、菊の面がアルフレッドに向けられる。すぅっと、部屋の空気が変わった。
凛と張り詰めた緊張が部屋の中に満ちる。
否定の言葉を吐こうとした口は途中で形を変えた。あいまいに濁してもよかったはずの返事はうっすらとした笑みと共にアルフレッドへと返される。
「えぇ、不満ですとも」
苛烈な光が菊の瞳に宿り、アルフレッドを射抜く。普段はまっすぐ向けられることのない視線。まるで突き刺さるような力がそこにはあった。
けれどもその視線を向けられても、アルフレッドは楽しそうにほほを緩めるだけだ。まるで珍しいおもちゃを前にした子供のように、上機嫌な表情を崩さない。
「やっぱりキクはきれいだ」
そう言ってにっこり笑った相手に、菊は諦めたように静かに目蓋を閉じた。
どうして。どうして。
200年なんて、自分が生きてきた月日からみればあっという間ともいえる短い時間だったはずなのに。
会えない日が苦しくて、抱き合った肌の温度を幾夜思い出しただろう。
けれど、私は国だ。その理を覆すことなどできない。
彼の欠片を見つけるたびに騒ぎ出す胸は、目蓋の裏によみがえる面影を引きずり出そうとする。
匂い袋の中に入った、小さな金属の塊。何も返せなかった私に、預けてくれたあなたの心。
布越しに感じる硬質な手触り。
攫ってくれると言ったのはあなただったのに。
瞳を開ければ、そこにあるのは自分の願望とは裏腹の確かな現実。
「キク。ヨコハマに行かないのなら、エドを案内してくれよ。一人で歩いちゃだめだって言われてるんだ」
目の前にあるのは、穏やかな翠ではない。天を覆う、空の蒼が不満そうにこちらを見つめていた。私がこの目に映したいのは、この色じゃないのに。
「・・・しょうがないですね」
好奇心旺盛な子供に、菊は今度は隠そうともせず大きなため息をつき立ち上がる。
「どうせ、嫌だといっても連れ出すのでしょう?」
その言葉に、陽の光と同じ色を持つ存在はにっこりと笑みを深めた。
これが・・・天命であるのならば受け入れよう。
あなたにもう一度会うために、必要であるというのなら。
いつか、またこの瞳にあの笑顔を映すことができるのならば。私はいつまでも彼を待ち続けるのだろう。
自分の心に、嘘をつきながら。
・・・・・・・それでも。
一瞬でも早くあなたに会いたいと思ってしまう弱い私を、あなたは許してくれますか?
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いつか出したいと思ってる本の資料探してたらペリーの横浜上陸の石版画に行き当たってしまい、そこから繰り広げられた妄想の結果。↑
アルフレッドに出会う何百年も前(鎖国以前)にアーサーと菊は会ってたんだよーっ。だから菊はずっと鎖国の間中もアーサーを思って待ってたのに何故か開国させられたのはアルフレッドだったんだよー。てことさえ分かっていただければ。
ちなみに、悠遠〜にはアルフレッドは出てません。
アーサーと菊の付き合いって意外と長いんですよね。欧州では2番目か3番目くらい?平戸にも商館持ってたくらいだし。
アーサーんとこは鎖国中も何度も何度も懲りずに菊んちに押しかけてたのに、ことごとく色んな理由で菊の上司に邪険にされていた辺りが不憫でしょうがない。本当に不憫。なのにアルフレッドに役得奪われるという切なさ。報われないねアーサー(笑)
『悠遠〜』の方はそこんとこの事情すっ飛ばしてますけど。