*「隣人を愛するのは場合によります」と同じ世界観での話です





    

 昼の太陽の熱と変らない暑さが、夕暮れの街の空気を焼いている。例年ならば、もうこの時期のこの時間はもう少し涼しくなっていてもいいはずなのに今年はどうしたことか夜になろうとも一向に気温の下がる気配がない。

 異常気象だ、と騒ぐ世間のニュースを眉をひそめて見ながらも、しかし窓もカーテンも締め切りクーラーを効かせた室内にいればそれも別世界の出来事だ。

 そんな寒いくらいに冷やされたリビングで、肩にかかりそうな金髪を後ろで一つに結わえた男が一人、端正な顔をにやりと歪ませながら頬杖を付いている。

 ソファの肘掛にもたれかかり、まともにしていればさぞ女性からの視線を独り占めできるであろう顔を幸せそうに緩ませながら。

 そして男は、閉ざされた隣室に向って声を上げた。

 「ねぇーっ、菊ちゃんまだー?」

 室内に響く声は、端からでも分かるほど浮かれている。

 誰から見ても分かりやすいほどに、フランシス・ボヌフォアは機嫌が良かった。

 問いかけに対する返事はなかったが、中の様子を予想できるフランシスにとっては何一つ問題はない。この距離で声をかけて聞こえなかったはずのない隣室の相手がきっと今ごろ、仏頂面で支度を進めているのだろう様子を思い浮かべれば、むしろ頬が緩むほどだ。

 (あぁっ!神様ありがとうっ!)

 心の中で手を組み、フランシスはにやけた顔を隠そうともせずそう感謝した。

 今日は近所の夏祭り。インドアな恋人を日が暮れたらという条件の下連れ出す約束を成功させただけでも僥倖なのに、今日はもう一つフランシスの顔を緩ませる理由があった。

 ことの起こりは、1週間前。

 ちょっとしたフランシスの提案で行われたちょっとした賭けにフランシスが勝ったというだけの話ではあるのだが。その、ちょっとしたことが肝なのだ。

 「ねーっ。お祭り始まっちゃうよー?」

 あと30分もすれば日も完全に落ちるだろう。

 日が落ちたらという条件であるからあと30分は外出できないわけだが、それでもついつい催促してしまう。

 思った以上に菊の準備が長引いているせいか、それとも思ってた以上にフランシス自身が今日という日を楽しみにしていたせいか。

 (あーっ)

 にんまり、とフランシスはまた唇を引き上げる。

 (早く見たいっ!)

 隣室で、今菊が着替えているそれ。頭の中での想像図は完璧だが、しかしきっと実物はそれ以上だろう。そう思えば、はやる心を抑えるのは無理だというものだ。

 そしてもう一度、声を上げようと口を開こうとした時、ようやくがちゃりとリビングに続く扉が開いた。

 きた・・っ!

 その音に、がばっとフランシスはソファから身を起こし隣室の扉へと顔を向け・・

 「あ、おわっ・・・」

 そしてフランシスは、そこにあったものに思わず絶句していた。

 

 

 

 

 「この前、デパートで菊に似合いそうな浴衣見つけたんだよー」

 先週のことだ。

 テレビに映る花火大会の様子をリビングで見ながら、フランシスが菊にそう話し始めたのは。

 毎週末のようにどこかしらで行われる花火大会。それに被るように、そこかしこで夏祭りも開催されている8月という季節も半ばのことだった。

 唐突にそんなことを言い出したフランシスに、菊は視線だけで話を促す。

 「もうじき近くで夏祭りだって話だし、菊ちゃん一緒にいかない?」

 菊と暮らし始めてからもうじき1年になる。それまでも、友達のような曖昧な関係だった時から世間一般のように力いっぱい思い出造りのように2人で遊びに行くようなことはなかったが、それは今ももちろん変わらない。

 むしろ、一緒にいられる分部屋から出なくなったかもしれないと思う。

 フランシスは外に仕事があるからいいとして、仕事も家の中でできてしまう菊はいったいどれだけ外出していないのだろう。まぁ、本人はいいのかもしれないが。

 別にフランシスとて無理に外出をしようとは、普通ならば思わなかった。ただこうして、並んでテレビを見ているだけでも十分幸せだからだ。

 けれど、フランシスがそんなことを言い出したのは夏祭りの賑やかさに惹かれたからではない。

 ふらりと立ち寄ったデパートに飾られていた浴衣。それが、彼のいたずら心をくすぐったのだ。

 「浴衣とか着てさ」

 「浴衣、ですか?」

 フランシスの誘いに、菊は薄っすらと眉を寄せた。

 「確かに着ることはできますけど・・でも、私持ってないですよ」

 その言葉を待っていたかのように、フランシスはポケットに入れてあった携帯を探る。

 「じつは、菊にきてもらいたい浴衣を見つけてさーっ」

 ぴっと探し当てた画像。参考にと撮らせてもらったマネキンが着たその写メが映る画面を、菊へと向ける。

 そしてその画像に、菊は今度こそ思いっきり眉を寄せて見せた。

 黒に近い紺に白で花の模様が抜かれていたそれは全体的に落ち着いた色合いで、しかしどことなく物言わぬ色気があった。それに、紫に濃い赤と黒で蝶の模様の描かれた帯が巻かれている。

 それは明らかに女性物の浴衣。

 「嫌ですよ」

 呆れたような菊に、そう断られるのも想定内。

 だから間髪をいれず、フランシスは「じゃあさ」と畳み掛けた。テレビは先ほどのニュース番組ではなく、短いCMがころころと賑やかに変っているところだった。

 「CM開け、女性が映ったら俺の勝ち。男性なら菊の勝ちでどう?」

 「は!?」

 急な展開に、菊が思わず目を丸くする。

 「ちょ・・・っ!フランシスさんっ!」

 「はい!きまり〜っ」

 確たる了承を得ないまま、CMが開ける。が、勝負が始まってしまえば菊の性格から言えばこっちのものだ。

 これで、女性が映ってくれれば。

 フランシスには特に確固たる確証があってこの賭けを言い出したわけではない。だが、自分のへんなところでの運のよさも知っていた。

 そして、結果は・・・

 茶色に染めたボブショートの髪、涼しげな白の半そでジャケットにレースのついたキャミソール。薄く塗られた淡いリップが、画面の向こう側できれいな弧を描いていた。

 にやりと笑ってフランシスは菊に顔を向ける。

 眉を寄せて唇を尖らせる菊の頭に、フランシスはポンと手をおいた。

 「きーくちゃん」

 恨めしい視線がこちらを向くが、勝負は勝負。ま、負けたところで強引に買ってきてしまおうだなんてそんなことは口に出さないけれども。

 「あの、ですね・・・」

 なかなか承諾をしない菊に、フランシスはこぶしを握り締め断言した。

 「だぁーいじょうぶ!絶対絶対似合うからっ!」

 そんなフランシスの顔を菊はじっと見つめ、そして長い長いため息をつく。

 「そういう意味じゃないんですけど・・・・」

 「ん?」

 ぼそりと呟くように吐いた言葉はうまく聞き取れなくて、だから聞き返そうとした俺に菊は諦めたように言葉を吐いた。

 「いいですよ」

 「まじっ!?」

 「その代わり」

 黒い大きな瞳が下からじっと見つめて真剣な顔をしている。

 「着るからには、ちゃんとお祭り連れて行ってくださいね?」

 やきそばとお好み焼き、久しぶりに食べたいので。そう可愛らしい希望を口にした菊に、俺は満面の笑みでもちろん!と頷いたのだった。

 

 

 

 

 そうだ、頷いたのだ。あの時は。

 なんであの時頷いたんだと、過去に戻って自分をぶん殴ってやりたいと思う。

 まぁ、もどったところで結果は同じだったところだろう。

 思えば予想以上にあっさりと菊が頷いたのもおかしかったではないか。あの時はよこしまな思いに浮かれていたのと、きっと自分が折れないことを菊が分かっていたからだろうと思っていたのだが・・・まさか、こんな仕返しに来るとは・・・・  

 「フランシスさん?」  

 可愛いだろうと思っていた。もともと中性的な菊だから、女物の着物も違和感なく似合うだろうと。そう、そこまでは分かっていたのに。  

 (規格外だろう・・これは・・・)  

 目の前で、幼さを残しながらもどこか妖艶な傾国と呼んでも間違いないような美少女が、にっこりと笑っていた。  

 (あぁ・・・)  

 眼福だ、そう思うのにどうしてだろう敗北感しか味わえないのは。  

 長いまつげに縁取られた瞳は大きく、黒目がちなそれは潤んでまるで情事の時を思い出させるようだった。  

 形のいい唇は本当に僅かに塗られたリップで妖しく光っていて、動くたびに視線を吸い寄せられる。  

 どうやったのか、サイドの毛だけ残し付け毛と共に頭の上で一つに纏め上げられた髪形のせいで首もとはすっきりと露わになっていた。襟をきっちり閉めているので見える面積自体はいつもと変らないはずなのに、インドアで日に当たらない生活をしているおかげで日に焼けていない肌はどこかなまめかしい。  

 すっと通った折れてしまいそうなほど細い首の上に、小作りの顔がちょこんと乗っている。  

 一つ一つの動作も着慣れたもので、可憐で、袖口から除いた指までがぞくりと情欲を煽るような仕草で。  

 やばい・・・と思う。  

 どうしたって視線を奪われる吸引力とでもいうのか。  

 確かに、菊を可愛いと思っていた。整った顔立ちだと。女物のユカタを着せて似合うだろうと思ったのは、確かに自分だった。  

 だが・・・これは・・・・  

 「ね?だから言ったでしょう?」  

 フランシスの考えていることが分かるのだろう。こてんと首をかしげる様は、思わずくらりときてしまうくらい愛らしい。  

 「フランシスさんにはお話してなかったですけど、私実は昔コスプレイヤーだったことがありまして」  

 聞いてない、とは思いつつ聞いていても同じだっただろうなとは自分でも分かる。ならなお更っ!とねだったであろう自分が浮かんで、より一層苦虫を噛み潰したような顔になってしまった。  

 「基本はもちろん男装だったんですけど、時たまのりで女装をすることもあったんですよね。だから化粧とか覚えたんですけど」  

 ぱちぱちと瞬いた瞳にはマスカラがきれいに塗られている。多すぎず少なすぎず、菊のもとから大きな瞳を最大限に生かす程度に。  

 「ですから女装っていうと、昔の血が騒いで完璧にしたがるというか」  

 あぁ、そうだね。とフランシスはどこか別次元の出来事のように思う。それはもう、目の前にいる人間は完璧な美少女だ。  

 「ただ・・・・」  

 と、言葉を切って菊はふうとため息をつく。

 「この格好をすると男の人に異常にもてまして・・・・」

 ちらりと上目遣いで見上げる様子は、それはそれは庇護欲をそそるような可憐な仕草で浴衣を拒んだ本当の理由を菊は口にした。  

 「ストーカーが大量に発生して面倒なことになったんですよね」  

 うぐうと、フランシスの口からうめき声が漏れる。  

 あぁ・・そうだろう。それはそうだろう。過去にあった出来事が証明しているではないか。これは、危険な生き物なのだと。  

 こんなの他の男の前に連れて行ったら、格好の餌もいいところだ!とフランシスは内心で歯軋りをする。  

 絶対に、男どもの注目の的になるだろう。絶対だ、断言できる。何をかけてもいい。  

 ふらふらと見境なしに引寄せられるであろう哀れな男共の姿を想像するのは容易かった。  

 だから女装はやめてついでにコスプレもやめたんですけど。と菊は首をすくめて見せた。  

 やっぱり、としかいいようがない。それはそうだろう。こんな妖艶で可憐な美少女が歩いていたら、フランシスだって間違いなく声をかける。それこそ相手がいようがいまいがだ。  

 「だから、嫌だったんですけど・・・」  

 ちらりと菊の視線が、含みをもってフランシスの方を向く。  

 あぁ、そうだ。言った。いいましたとも。俺が着てくれと頼んださっ!  

 ほとんど強引に、引く気なんかかけらも見せることなく。それで、お祭りに行ってかわいい菊を自慢したいと思っていたのは俺だけれどもっ!  

 正直今は、連れ出したくない、と言いたい。他の男にこんな姿を見せるなといいたい。できればずっと自分だけで愛でていたい・・・いたい・・・のだけれども・・・・  

 「お祭り、連れて行ってくださるんですよね?」  

 この生き物を人ごみに連れて行ったら確実に何か問題を起こすだろう。それは、予想ではなく確証だ。だが、けれどもしかし・・・っ!  

 「ね?フランシスさん?」  

 いつも以上に潤んだ黒目が自分の顔を覗き込んできて・・・  

 そしてフランシスは、がっくりうなだれるように「はい」と屈服したのだった。