ピンポーンと、聞きなれた玄関のベルが木造の家屋に響いた瞬間、家主である菊はタイミング良く頭に巻いていた三角巾を外したところだった。

 少し早い来客にあわてつつ、菊は割烹着を着たまま廊下を小走りに玄関へと駆けていく。

 予想通りの人物でなければ、宅配か集金だろう。どちらにせよ、菊の今の格好を不調法だと眉をひそめる相手ではない。

 「はいはい」

 ぱたぱたとスリッパの音を軽やかに踊らせながら玄関の扉に手を掛ける。曇りガラスの向こうにある、金の光に頬をゆうるりと綻ばせた。

 「いらっしゃいませ」

 その微笑みのまま出迎えれば、ガラスの向こうにあったには想像通りの翡翠の瞳。

 「アーサーさん」

 澄んだ水底の奥に眠る宝物のような。

 久しぶりの逢瀬に、ほこりと胸の中に小さな灯火が灯る。

 けれども、同じように暖かな笑みを返してくれると思っていた相手は何故か硬い表情でこちらを見下ろしていた。

 今日の訪問を楽しみにしていたのは、うぬぼれではなく自分だけではないはずだ。

 なかなか会えない立場だけれども、今日は恋人たちの日だからと彼も無理をして休みを取ってくれたはずなのに。

 何か、向こうで問題でも起こったのかと菊はわずかに首を傾げた。

 「これを・・・」

 そんな菊の困惑を知ってか、アーサーが差し出したのは優美な曲線を描く花びらが幾重にも重なった一輪の淡いピンクのバラ。

 その花の可愛らしさに自然と笑みが浮かぶ。ありがとうございます。そう言おうと思って上げた視線の先。

 バラを持つ手の先にあるアーサーの顔は、なぜか仏頂面のままほどけてはいなかった。いつもの、照れ隠しの顔ではないことわずか不安を覚える。自分は何かいけないことでもしてしまったのだろうか?

 「アーサーさん?」

 「本当は・・・」

 「はい」

 「日本では、バレンタインにはチョコレートを送るんだろう?」

 「・・・そうですね、最近はそれに拘らなくなってきましたが一般的には」

 「こちらでは、男性は女性に花を、女性は男性に本を送るのが慣習になっていて」

 それももちろん知っていた。

 我が国の習慣は、商魂たくましいお菓子会社の手腕によるものが大きいが、こういったものには各国の特色が出る。

 本を送るというのはチョコレートを送るよりも選択に難しいし、女性の負担になるのではないかと思った記憶があった。その分、義理で送る必要性はなくなりそうだが。

 だから、こうしてアーサーが花を持って今日という日に自分の元を訪れてくれるのはとても嬉しいことなのに。

 何故彼は、こんな顔をしているのだろうか。

 「それが、どうかしたんですか?」

 「だから!」

 キッと睨むように向けられた視線。そして、

 「本当はチョコレートを作っておまえに渡したかったんだ!!」

 「・・・・・!!」

 一瞬、激しく自分の顔がひきつったのが分かった。

 幸いなことに、彼はなにやらを思い出しているのか憤りを露わにしていて、こちらを注視していなかったため気付かれなかったようだが。

 「そっ・・・そうなんですか・・・・」

 なんて無謀・・や、危険・・・いやいやいやいや・・・ごめんなさい。フォローの言葉が浮かびません。

 それならば何故、ここにあるのはバラの花束なのだろうかと、菊は首を傾げる。まさか、背後に隠してあるなんてことないと信じたい。

 「なのにっ!俺がチョコレート作ろうとすると、どこから聞きつけてきたのかアルフレッドとフランシスのやつがことあるごとに邪魔してきやがって!!」

 アルフレッドさん、フランシスさんぐっじょぶです!!

 あぁ、お二方には何か心を込めお礼の品を近々送らなければなりませんね。

 「それは・・・・」

 残念でしたねと、口先だけでも言えない自分は結局のところ自分がかわいいのだろう。いや、しかしこんなところで生命の危機に見回れているとは思いませんでした。恐ろしいですねバレンタイン。こうなると、今後この風習を直さなければいけませんかね。なんて考えが半ば本気で浮かんだりするが。

 それでも、

 「これじゃあ、いけませんか?」

 柔らかい笑みをその顔に乗せて、バラに手を伸ばす。

 バラと一口に言っても、数ある種類の中からきっと彼が自分のために必死になって選んでくれたであろうそれ。だから、手の中にあるそれに向けられる微笑みは決して嘘ではない。

 目の前の、優しい金によく似合う柔らかい色合い。

 「私はこれでも、十分嬉しいです」

 そう言えば、照れたことを隠そうとするように少し目線を外された。手のひらの中にある薔薇のようにわずかに染まった頬までは隠せなかったけれども。

 「・・・・イングリッシュローズというんだ。俺の国で生まれた」

 「あぁ、だからこんなに暖かい色をしているんですね」

 そう言ったら、驚いたような顔の後耳まで真っ赤に染まっていった。

 気高さの中に、あなたのような優しい眼差しで包まれるような。

 美しいあなたの花。

 「お茶を・・入れていただけませんか?」

 「茶?」

 「えぇ、ちょうど私もケーキを焼いていたところだったんです。この花とケーキには私のお茶よりもあなたの国の紅茶の方が合うでしょう?」

 「・・・っ!任せておけ!」

 ようやく見ることのできた満面の笑顔。

 私を幸せにできるのは、チョコレートでも薔薇でも紅茶でもなく、その笑顔だといったらあなたはどんな顔をするでしょうか。





HAPPY VALENTAIN !!