見たことのないような険しい表情のまま、アーサーが近づいてくる。
「・・・・何してる」
空気さえも、凍りそうな声だった。
「何って、用があったから来たんだけど?」
大きな図体をかわいらしくすくめ、変わらぬ声で男は言う。
「窓からとは不躾だな」
射るようなアーサーの視線にも、その男はふふっと笑うだけだった。
「イヴァン」
その男の名前なのだろう。アーサーが呼ぶ。
「だってねぇ、気になっちゃうじゃない?」
スミレ色の瞳が、菊に向いた。
「屋敷の中で一つだけ、他の結界に巧妙に紛れさせた変な気配なんてあったら」
変な気配・・・?それは、自分のことなのだろうか。
人外の存在である彼の屋敷の中で、自分だけが人間だということを菊は知っていたからそのこと自体は別に不思議でもなんでもなかったが、しかしイヴァンという男の言葉に何かしらの含みを感じ首をかしげた。
「隠したかったのは、これ?」
言葉は疑問符であるのに、イヴァンの楽しそうな瞳は菊から動かない。
何故か、ぞくりとした嫌な感覚が菊の背筋を這いあがる。体の中まで浸透し、すべてを引きずり出し暴こうとでもするようなそんな舐めるような視線。
それから逃れるように菊が後ずさるその前に、イヴァンの視線と菊の間にはいつの間にかアーサーが立ちふさがっていた。
「今日は、そんな用じゃないはずだ」
そう言ったアーサーの表情は見えなかったが、おそらく背筋がふるえるほどの冷たさがあるのだろう。
ぐわりと部屋の空気が変わる。
背中に庇われている菊でさえ、分かるほどに。
それほどまで、アーサーからイヴァンに向けられる目に見えない圧力は、常人が発することのできるものではなかった。
「そうだね」
アーサーの言葉をあっさり肯定し、しかしイヴァンは「でもさぁ」とアーサーの背にかくれている菊を覗き込むように目を細めた。
「その隠したい程大切なもの、ずいぶん君に怯えちゃってるみたいだけどいいの?」
怯え・・・・?
「可哀想に。震えちゃってるじゃない」
「・・・え?」
驚いたような声を口にしたのは誰でもなく菊だった。
「あ・・・・」
短い声をはいて、自分の手に視線を落とす。
(・・・・あれ?)
胸の前で握り合わせていた手は、小さくカタカタと小刻みに震えていた。
(あれ・・・?なん、で・・・?)
止めようと思うのに止められない。握り合った両の手を離そうと思っても、くっついてしまったかのように離れようとしなかった。
なんで・・・震えてるんだろう。
確かに、今日のアーサーはずいぶん機嫌が悪く、怒っているのだと思った。
けれど菊自身、アーサーを怖がる必要は一つもないというのに、何故。
だって、菊はアーサーのものだったから。アーサーがどうであろうと、菊がアーサーに怯える必要は何一つないというのに。
いや、違う。
菊は、アーサーを拒絶してはいけないのに。
これではまるで・・・彼を、恐れているような・・・
どうしていいのか分からなくて、顔を上げればそこには自分を見下ろすアーサーがいた。
その視線は、自分の握り締められた手に注がれている。
見られている。この、手の震えを。アーサーに恐れている証を。
「・・・・・あ・・っ」
「菊」
先ほどとは、全く色合いの変わった声が自分の名前を呼んだ。
いつもの・・・いつもの声だ。
アーサーの、自分の名前を呼ぶ柔らかい・・・
そして、手袋をはめたままのアーサーの手が、ふっと菊の固まったままの両手に触れる。
それはまるで、魔法のようだった。
どうやっても解けることのなかった手が、ふっと落ちた。はらりと、なんでもなかったかのように両の手が離れ下に落ちる。
震えも、それと同時にピタリと止まっていた。
(あぁ・・・)
こみ上げてきたのは、安堵だ。
(大丈夫だ・・・自分は、まだ・・・)
まだ、何なのか。答えは菊の中にはなかったけれども、無意識にそう思い息を吐く。
その菊の頭に、ぽんと手が置かれた。アーサーだ。
「もう少し、ここにいろ」
くしゃりと髪をかき回され、しかし菊が何か言う隙もなくアーサーは菊の傍を離れる。
部屋の出入り口近くで振り向き、ことの成り行きをただ面白そうに見ていたイヴァンを振返った。
来い、と短くイヴァンにつげ、アーサーは部屋の扉を大きく開け顎でしゃくる。その横柄ともとれる様子にひょいと首をすくめ、イヴァンはしかしごねることもなくその扉へと足を向けた。
アーサーの横を通り部屋を出る。
部屋の敷居をまたぐ瞬間、イヴァンはくるりときびすを返し菊を見た。
「また、ね?」
楽しそうにそう告げるイヴァンの顔は、しかしアーサーによって扉の向こうへと隠され・・・。
菊はただ、閉まった扉を呆然と見送ることしか出来なかった。