部屋の片隅においてある机に座り、ひたすら本を読む。それが、とりわけ用事のないときの菊の主な時間のすごし方だった。
ほかには、庭の薔薇園を見に行くなどというすごし方もあるが、今日はアーサーから1歩も部屋を出てはいけないと言いつけられていたからそれは出来ない。
ドアを開けてはいけない。窓も。アーサーが開けるまで、決して1歩も外に出てはいけない。
そんな日は今日が初めてではない。時折、強い瞳でアーサーは菊にそう言い含めて部屋に閉じ込める。
それは決して長い時間ではなく、長くても半日のことだから菊にとって特に支障はない。
だからそれに菊は、何も疑問も持たずに「はい」と答え部屋の中に閉じこもる。
今日も、角が少し擦り切れた古い本をぺらりとめくりながら、菊はただただ時間を過ごしていたのだ。
「あれ?」
そう、見知らぬ声が菊の耳朶を打つまでは。
「知らない子がいる」
振り向けば、何時の間にかベランダへと繋がる窓が開いている。
開け放たれたそこから入ってきた風が、菊の手元にあった読みかけのページをぱらぱらとめくった。
薄い色の瞳と、目が合う。
「可愛い子だね」
知らない人だった。
アーサー以外に菊が知る存在はいないのだから当然だが、その場所に何故知らない人が現れるのだろうと疑問に思う。
「誰ですか?」
金色・・・というよりは、もっと薄い。白に近い髪の色。
自分よりも・・・いや、アーサーよりも大きな体に長いマフラーを巻きつけてその男は立っていた。
「君こそだれ?」
聞いたつもりが聞き返されて、菊は少し困ってしまった。
名前を、聞いてはいけなかったのだろうか。
アーサーは、菊が疑問に思ったことに対しては答えを返してくれる。今のように、答えもくれずに聞き返してくることはない。
だから、菊は困ってしまった。
「聞いてはいけなかったですか?」
「いけなくはないけど、他人のこと知りたいならまず自分から名乗るべきだって教わらなかった?」
教わってはいないが、そういうものなのだろうか。
アーサーはたいていのことは菊に教えてくれるし、大抵のことは本を読んで学んでいるつもりではあるが、それでもこうやってアーサー以外の相手と話すのはあまりにも久しぶりだからやはり間違えてしまったのかもしれない。
「菊、と申します」
自分の名前を言うのは、これで2回目かもしれないと菊は思う。1度目は、ここに連れられてきたばかりの頃にアーサーに聞かれた。
アーサーの元に来る前は、菊に名前を尋ねる人などいなかったから。
素直に名前を告げれば、相手はふうん。と興味があるのかないのか分からないような声を返してきた。
「君は、なに?」
続けて返されたのは、また疑問。自分の問い答えてもらってないなとは思ったものの、さほど相手の名前など重要ではないから追及するのはやめた。
けれども、なに、とはどういうことなのだろう。
分からなくて首を傾げたら、男は音も立てずに近づいてきた。
「人間でしょ?君、なんでここにいるの?」
ということは、相手は人間ではないのだろう。あぁ、ではアーサーと同じ吸血鬼なのだろうか。
アーサー以外の吸血鬼がいることは知っていたが、こんなにも違うものかと菊は目の前の大きな体躯を見て思う。
アーサーは、冷たい月の色をしているのに自分を見る目はどこか暖かい。けれどもこの相手は、まなざし一つで相手を凍らせてしまいそうだ。
夜の氷にも似た、薄い紫色の瞳がそう思わせるのだろうか。
凍らせられたら困るな、と菊は他人事のように考えた。凍ってしまったら、役に立てなくなってしまう。
体が凍るということは、血液も凍るということ。そうしたら、ここにいる理由がなくなってしまうから。
「なぜ・・・ですか」
そうだ、自分がここにいる理由。
「アーサーさんのためです」
すべては彼の気の向くままに。
それは、菊にとって絶対の真実。
なのに男は、何故か不機嫌そうにぴくりと眉を動かした。
そして、薄い唇が言葉を紡ぐために開く。しかし、
「菊っ!」
男の言葉が形になる前に、焦ったような声と共に扉が開いた。
壊れるほどの力で開かれた扉の向こう、見たこともないくらい険しい視線のアーサーがいる。
「アーサーさん」
珍しいアーサーの様子に、菊は愛しい相手へと視線を向けた。