黒い艶やかな髪が持ち主の動きに合わせ耳元でさらりと揺れる。  

 摘み取ったバラで手を傷つけないように気をつけながら、菊はふうと顔を上げた。  

 森に囲まれた広い庭園は綺麗に整理され花を咲かせている。深い緑とそれに反発するような赤。それだけが、この世界の色だった。広大な敷地を有しながら、この庭に咲くのは深紅のバラただ一つ。バラの種類にはこだわりはないらしい。けれど、この庭に咲く大量のバラが赤以外の色をつけるのを菊は見たことがなかった。  

 菊の腕の中には、もう抱えきれないほどの赤が収まっている。  

 これだけあれば、今日はもう十分だ。  

 ふわりとそれらを見下ろし、菊は庭園を後にする。早くこれを、屋敷の花瓶に生けなければ。遅くなったからといって怒られたことはなかったが、彼のためになるのならば一刻も早くと心がはやる。  

 花びらを散らさないように、けれども少し早足で菊は屋敷へと向かう。その後ろで、切り取られたばかりの茎の先が黒とも思えるような濃い赤の煙が包みはじめた。どこからともなく立ち上がったそれは、ゆうるりと切り取られたばかりのその先へと広がっていく。  

 それは、一瞬の出来事。煙が晴れた先には大輪のバラが何事もなかったかのように咲いていた。  

 ざわりと、風が鳴る。けれど庭園は先ほどと全く変わらない姿で屋敷へと向かう菊の背を物言わず見送っていた。

 

 

 

   

 菊の住むこの屋敷は、広大な土地のその奥にぽつりとたっていた。  

 使用人は幾人かいるが、菊は彼らとの接触を禁じられているため彼らが菊に近づいてくることもなければ、菊が近づくこともない。だから、彼らがどのような人物なのか菊は一切知らなかった。けれど不便を感じたことはない。菊にとって、菊が知っていればいいのはただ一人だけだから。  

 菊がこの屋敷に来て、もう12年になる。  

 その間、菊の仕事は一貫して一つだけだった。  

 庭にあるバラの花を摘むこと。  

 それ以外は、屋敷の中であるならば何をしていてもいい。庭を出歩くことも、書庫で本を読むことも。  

 広すぎるこの屋敷とその周囲を囲む森と言っていいほどの庭園は、菊にとっては十分な広さだった。  

 菊は、自分がどれほど恵まれた存在なのかを知っている。だから、屋敷の外に出てはいけないと言う不自由はあったが、決してそれを不満に思うことなどなかった。幾年たっても忘れることなどできない。染み着いた記憶。どれほどまでに外の世界がどれほど醜く虚栄と欺瞞に満ちているか。あそこでは弱き者は搾取されていく宿命なのだから。そう、菊のように。  

 そんな世界に比べれば、ここは天国のような場所だと菊は思う。  

 花束を抱えて、屋敷の二階へ上がっていく。  

 廊下の奥、日当たりの一番悪い部屋はこの屋敷の主人の部屋だった。その中へ、菊は軽くノックをする。  

 その返事が返ってくることはない。けれど、それが当たり前のように菊は返事のないドアを大きく開けた。  

 「アーサーさん」  

 広い部屋の中には、上品な家具が配置されている。けれどもその室内は、昼とは思えないほど暗く沈んでいた。日当たりだけの問題ではない。窓という窓にかけられた分厚いカーテンが、外の光の進入を許さないとでも言うようにぴたりと閉じられていた。  

 締め切られたカーテンの中、質のよい布で作られたシーツの中、一つの固まりが菊の声に反応するようにもぞりと動く。  

 「今日も、きれいに咲いていましたよ」  

 そういいながら、手に抱えたバラの半分を花瓶に生ける。残りの半分を持ちながら、菊はベッドへと近づいた。  

 「おはようございます、アーサーさん」  

 そして、手の中の真っ赤なバラをシーツの上へと大きくばらまいたのだった。  

 菊の手から離れたバラは、宙を舞いシーツへと落ちていく。しかし、それがシーツに止まったのもつかの間。まるでその中に吸い込まれるようにして赤い花弁はすうっとその姿を消した。  

 もぞりと、シーツの下が動く。  

 そこから現れたのは、見事な金色の髪と緑の瞳。  

 「おはようございます」  

 現れた相手に、菊はにっこりと笑顔を見せる。  

 「・・・あぁ、おはよう。菊」  

 そして帰ってきた言葉に、彼に自分の名前を呼ばれたことにその日一日の喜びを噛みしめるのだ。  

 菊は、自分がなぜここにいるのか、何のためにここで育てられているのか知っている。  

 おそらく、外の世界の人間からしてみればおぞけだつに違いない理由。  

 けれどもそれは、菊にとってとても幸福なことだった。