それは、月のない夜だった。
メインストリートから外れたわき道。煉瓦で舗装もされていない土埃のけぶる中で、小さな黒い固まりが闇に紛れるようにひっそりとあった。
馬車の走る蹄の音が遠く響く。車輪のがたりという音が空気をふるわせた。
わずかながら覗く街灯の明かりは、その切れ端が届く程度で到底こんな裏路地にまで差し込むことはできない。
大人であれば一抱えでできるであろう大きさのそれは、土や埃やらで汚れた黒の薄い布に丸くくるまっている。布からわずかにはみ出ているのは、周りを渦巻く闇と同じ色の人間の髪の毛。
さらには、枯れ木のような細さの腕がまるで助けを求めるかのように延びている。
小さな子供の手。
ゴミのように路地の片隅に打ち捨てられでいた固まりは、人だった。
触れれば簡単におれてしまいそうなほど脆弱にやせ細ったそれは、見るも哀れなほど薄汚れている。黒い、子供特有の細い髪も艶めきを失いぱさぱさと乾いていた。
人、である。今はまだ。
おそらくもうじきすればこの固まりも死体というものに変化するのであろうが、まだこの小さな心臓は確実に鼓動を刻んでいた。
けれども、それも時間の問題であろう。
動くことのできないほど衰弱した体は、自ら食料を求めに行くこともできない。この子供を探しにくる大人ももちろんいない。浮浪児たちが死んでいくのが当たり前になっていたこの都会で、生きているのか死んでいるのかも分からないような相手に手をさしのべるようなものも。
そのことを、曖昧になっていく意識の中で子供も理解していた。
もう幾日、食べ物を口にしていないだろう。
時折降る雨水を口にしながら何とか生きながらえてはいたものの、もう指先一つ動かす気力もない。
瞼を開けるのもおっくうではあったが、それでも子供は久方ぶりにその瞳をあける。
長いまつげの奥から現れたその瞳の色も、空を覆う闇と同じ色だった。
いやだな、と子供は思う。
こんな夜に、死んでいくのはいやだな。
きっと自分は、もうじきこの命をなくすのだろう。
死ぬということがどういうことか分からなかったし、たぶんこれ以上つらいことがあるとは思えなかったから死んだところで苦しくもないだろう。
けれども、子供はやっぱりいやだなと思う。
こんな、何も見えない夜に死んでいくのだけはどうしてもいやだった。
死ぬのならばせめて、明るい満月の夜がいい。
大人たちは不吉だといやがるが、子供は空に輝く黄色の月がまん丸に光る様が大好きだった。
空から降りてくる、黄色とも白銀ともつかないような月の光に照らされる恍惚は幼い心の唯一の救いだったから。
だから、死んでしまうのならば月のでた夜がいい。そう思うけれども。
きっと、だめなのだろう。
いつもよりも意識の途切れる感覚が短くなってきている。
自分は、あの輝きを見ることなく死んでいくのだ。暗い暗い闇の中で。それはまるで、この短い人生のように。
絶望とあきらめをすでに知っていた子供は、最後に一つだけ願いを心に宿す。
どうか・・どうか一目でいい。
一瞬で構わないから、あの輝きをもう一度だけ見れたなら。
ぼんやりと焦点の合わない目で、夜空を見上げる。けれどもその子供の願いもむなしく、空にかかった雲は晴れる気配がない。
最初で最後の他愛のない願い。
けれども、子供はそれが当たり前であるかのように瞼の力を抜いた。叶う願い事などあるわけがない。
夜空を写していた漆黒の瞳が瞼の奥に隠れようとしたとき、夜空を横切ったのは不規則に飛ぶ黒い陰だった。
それは、夜の闇よりも暗くどこかまがまがしい色をしている。
閉じようと半ばまで閉ざしかけていた瞼に再度少しだけ力を込めて、眼球がその陰を追う。
ぱたぱたといびつな2枚の羽をはばたかせて夜空を遊ぶその姿が、いつのまにか2匹に増える。そして、3匹。いつの間にか4匹。
そしてそれは、すぐに数え切れないほどの大群になった。
街の片隅で、どこからともなく現れ黒煙のように群を作るそれは小さなコウモリだった。
途切れることなく集まり続けるそれらは一所に固まると、まるで解け合うかのように一つの形をなしていく。
その不思議な様を、子供はただじっと見つめていた。
黒は嫌いだ。
黒は、自分の色。不吉な色。決して人に、好かれない色。
だから、その光景を子供は何の感慨もなく眺めていた。黒い闇の固まりが形を作る。縦に延びたその影は、瞬く間に影から黒いインバネスのマントを羽織った成人の男性へと姿を変えた。
魔物だ。人ではない、人外の恐るべきもの。だが、子供は特におそれを持つわけでもなく感情のない瞳で見上げる。
自分の死を自覚していた子供にとって、それは他愛のないことだったから。
けれども。いびつな羽の生き物がすべて消え去り、闇の中から浮き出るようにその男の全貌が子供の目に写るとその様子は一変する。
月が・・・
思わず、目を見開いてその姿を見つめた。
きらりきらりと、光を滴でまき散らすような輝き。それに、子供は釘付けになっていた。
月ではない。けれど、それ以上に美しく魅惑的な金色。
おぞましいほどの闇の中から現れたのは、きれい金の髪だった。月もでていない夜に、そこだけ己の力で輝いているように浮かび上がった光に子供の目が釘付けになる。
すごいな、と子供は思う。願いが、初めて叶った瞬間を子供は頭上で輝く金色を見ながら噛みしめていた。本物の月ではないが、それと同じ、いやそれ以上に子供の心を恍惚とさせる妖しい魅力を持つ輝き。
月と同じ光を持つ男は、何かを思い出したようについと手を空に掲げる。その先に夜の空から数羽のコウモリがまた飛来し、手に止まったかと思えば一瞬後には煙のように本来の形を歪ませ上質のシルクハットへと変化した。
男は、満足げにそれを頭へと乗せる。
あぁ・・。
金色の髪が少し隠れてしまったことに子供は落胆し、思わず声とも吐息ともつかない音を出していた。
「・・ん?」
それに気づいたのか、金色の男の視線が下を向く。じっと自分を見つめる瞳は月に照らされた夜の森のようだった。
「なんだ?子供か?」
男は、汚い布にくるまった存在をよく確認しようとわずかに屈み込む。
まるで、手の届かないはずの月が近づいて来たように思えて、子供はなんだかうれしくなってその顔を笑みの形にゆるませた。
金色の光が自分にまでかかりそうで。
「ふーん」
その様子を男はおもしろそうに思案し、そして口の端をつり上げた。
「お前、生きたいか?」
どうなんだろうと、子供はその言葉を聞きながら考える。自分の願いは叶ってしまった。最後に、暗闇の中ではなく輝く光を見て死にたいのだと。
だから、これ以上何かを願うのは自分には不相応のことではないだろうか。
けれど。もし、もしまだ生きることができるのならば。また、このきれいな金色を見ることができるのならば。
「・・・・・ぃ」
かすれるような、空気に紛れてしまうほど小さな声にもならなかった声。
生きることはつらいのだと知っている。このまま命を終えてしまった方が、楽になれるのだろう。
なのに、目の前の光が子供を誘惑した。
深いエメラルドの瞳が細められる。常人では聞き取れないほどの子供のつぶやきを、確かにこの男は聞いていた。
「いいだろう。今日は機嫌がいい。気まぐれに、お前に命をくれてやろう」
薄汚れた自分の体に躊躇なく延びた手を子供はじっと見つめる。
安堵のような不安のような、ない交ぜになった感情の奔流の中で、子供はその手に身をゆだねるように静かに瞼を閉じた。