「ほんっと、美形で困りますよね〜」  

 へにゃりとだらしなくゆがむ顔は、決して大量に摂取したアルコールのせいではない。  

 普段であるならば決して見せることのない蕩けるような顔で、菊はかれこれ2時間ほど一人の男を思って語り続けていた。  

 「あの、目元というか口元というか、完璧なシンメトリーで。あれを本当に芸術品って言うんですよね」  

 指先で透明な液体の入ったグラスを飲むでもなく弄びながら、夢見るような顔で聴き飽きた言葉は続く。  

 「そこにいるだけでもドキドキしてしまうのに、話しかけられたらどうしていいのかなんて分かりませんね。今日だって・・・」  

 あの数秒ともいえる会話を思い出しているのだろうか、色づいたため息が薄く形のいい唇から漏れた。  

 グラスの外側についていた水滴が、男にしては細い指を伝っていく。それを、小さな爪がはじく仕草を無意識のように眺めている自分に気付いた。  

 薄暗い店内の照明は、ありきたりな空間を幻惑の色に染める。先ほどまで会議室の蛍光灯の下で見ていたものとは違うクリーム色の肌は、生真面目という印象がぬぐえないこの相手からは想像も付かないほど匂い立つ妖しさを醸し出していた。  

 会議の後、二人で立ち寄った店はこの国では何時の間にか行き付けになっているほど通いなれた場所。  

 程度のいい音楽と照明、そしてなにより隔絶された空間が誰にも聞かれたくない話題を出すのには好都合だった。  

 主に目の前の相手にとって、だが。  

 「もう、年甲斐もないですよね。相手はずいぶん年下だというのに」  

 と、頬に手を当てる顔は今日集まっていた歴々の中でもとりわけて幼い顔立ちだ。  

 「今更、こんな小娘のように狂おしいほど焦がれるなんて思ってもみませんでしたよ」  

 まだ、心臓がドキドキしています。  

 ほう。ともう一度付かれた溜息は、想いの熱を吐き出して空気に溶けていった。  

 二人して連れ立って帰る後姿に刺さった視線の数を、菊は知っているのだろうか。  

 今日は二人で飲みたいからと、珍しく明確な意思表示をして彼が誘いを断った後、こちらに寄越された視線の強さ。  

 変わってやれるもんなら変わってやりたいと思う一方、どれほどキリキリと心臓の奥が痛もうがこの場所を手放せないアンビバレンスは哂いたくなるほど滑稽だと自分でも分かっていた。  

 「せっかく帰りの時間が一緒になったのに・・やっぱり声かければよかったでしょうか。夕飯くらいはご一緒にできたかもしれませんし。もしかしたら、2人きりになれた可能性だってあったのかもしれないんですよね。あぁ、でも一緒に食事に行けたからといって、何を話していいのか分からなくなるのだからやはり止めて賢明だったでしょうか」  

 問いかけるような口調は、決してこちらの答えを求めているものではない。彼の中で結論は決まっており、口に出すのはただその事実を自分の中で反芻しているだけなのだから。

 

 

   

 告白しないのか、と聞いたことがある。  

 これだけ熱の篭った思いを持て余しているのに、苦しい苦しいと繰り返すのに。決して本人には向かないその感情。  

 けれど返ってきたのは、いいえ。という否定の言葉。  

 「振られるのが、怖いのか?」  

 彼の国独特な卑屈な意識せいかと思った。  

 彼は、自分をとても卑下しやすいから。自分があいつに想ってもらえるなんて、そんな可能性なんかないと思い込んでいるんじゃないのかと考えて。  

 「仮にあいつに振られたとしても、振った相手に態度を変えるやつじゃないだろう」  

 愛の国なんてふざけた名称で呼ばれるあいつのことだ。それくらい慣れているのだろうから、そんな不安は無用だ。  

 なのに、菊は緩やかに首を振る。  

 「いえ、フランシスさんを疑うなんて、そんな失礼なことするわけないじゃないですか」  

 そして変わらぬ鮮やかな笑顔をこちらに向けるのだ。  

 「信じられないのは、私の心です」  

 だって、告白なんかして付き合ってしまったら困るでしょう?  

 あの時も、菊は笑っていた。  

 なのに。笑っているはずなのに、どこか寒々しい顔で菊は当たり前のようにそんなことを言う。  

 好きだ好きだといいながら、菊の愛は一線を越えない。  

 彼が私のことを好いてくるだなんて、そんな仮定は傲慢ですけれども。  

 そう前置きされた言葉は、けれども決してそれが答えではなかった。  

 「例え付き合えたとして。想いが通じたとしても、その後。もしかしたら、彼に幻滅してしまうかもしれない。彼を好きだという心が薄れてしまうかもしれない。そしたら、フランシスさんにとても失礼でしょう?」  

 そう言って、可愛らしく小首をかしげた菊に合わせてシルクのような滑らかな黒髪が踊るように揺れた。  

 「それに、そんなことになったら私は私に失望してしまいます」  

 完結してその先に進むことのない思考は、まるで閉ざされた檻のようだと思う。  

 小さな檻の中に閉じ込められているのは、菊なのかフランシスなのか。それとも・・

 

 

   

 菊の独り言のような言葉は、飽きることなく続く。  

 髪の話、肌の話、声の話、匂いの話。  

 「どれもすばらしいとは思いますけど、やっぱり、あの瞳の色がいいんでしょうか。夜と昼が混じったようなあの瞳で見つめられて愛をささやかれたら、誰だって腰が砕けてしまいそうですものね」  

 散々あいつから言われているくどき文句は数に入っていないのだろうか。入っていないんだろうな。そんなことを言うくせに、菊の中では勝手にあれは挨拶に変換されているのだろうから。  

 そう思ったら、憎からず菊のことを思っているあいつも、もしかしたら可愛そうなのかも知れないなんて、柄でもないことを思ってみた。  

 でも、あいつが菊のことが好きだろうとそうでなかろうと、そんなことは菊にとっては瑣末なことでしかない。  

 妄想の中での自分勝手な児戯に溺れていれば、決して誰も傷つくことのないなんて。そんな身勝手を信じ込んでいる年上の美しい相手から目をそむけたくて、手元にあった飲みかけのグラスに口をつけた。  

 「あぁ、明日も会えるんでしたね。また少しでも話せるように、きっかけを考えないと」  

 その時のことを想像したのだろうか。ほんのりと色づいた菊の頬はまるで恋をしているように見える。

 

 

 本当に彼は、嘘つきだ。

 

 

 「今からどきどきしてしまいます。どうしましょう」  

 年に何度も会えるわけではないから、あいつと会ったあとの菊はいつも以上に饒舌になる。きっとまた、明日も同じようにつき合わされるのかと思ったら少しだけ憂鬱になった。  

 けれども、自分はまた同じように彼の誘いに乗るのだろう。  

 だって、会えないのは自分も一緒なのだから。  

 「楽しそうだな」  

 「えぇ、だって。恋とは楽しいものでしょう?」  

 たとえそれが、決して正常な恋ではなくたって。  

 まるで恋を知ったばかりの乙女のように浮かれた声で、菊は歌うようにそう言った。  

 自分の正も負も、すべて知っているくせに見ない振りをしているずるい人。  

 「私、今すごく楽しいんです。けど・・・」  

 めったに視線を合わせないくせに、こういう時だけ射抜くように光に濡れた黒い瞳をまっすぐに向けるなんて。

 卑怯者め。  

 「アーサーさんは、まともな恋をしてくださいね?」  

 聴き飽きた言葉。まるで、言い聞かせるように何度も何度も。小さい子供に語りかける口調で最後に必ず付け足される忠告。  

 それができるくらいなら、お前に惚れてなんかない。  

 そう言おうとした口を無理やり閉じて、俺は「分かってる」と苦笑に似た笑みを受かべた。