カタカタカタと、小刻みに鳴る音が室内に響いている。
それに気が付いて、菊はパソコンを叩いていた手を止めた。
時刻は、いつの間にかとっくの昔に日付をまたいでいた。深夜の午前3時前。
それを確認して、菊はカタカタと鳴る音の発生源に目をやる。
パソコン台の隣に置かれたフィギュアケース。その中にある艶かしいフォルムの肢体が微かに揺れていた。
心霊現象などではない。よくよく見れば、パソコンを打つ動作で気付かなかったものの目の前の机も、床に置かれたミネラルウォーターの入ったペットボトルも同じように揺れていた。
(地震・・でしょうか)
そう言えば、最近は同じような揺れが多い。海外でも大きな地震があったばかりだし、もう少ししたらテレビでもつけてみようかと思う。
揺れの大きさからいって、震源地は近くではないかもしれないが体感するほどなのだから速報ぐらい流れるだろう。
揺れは一度収まり、しかし僅かなインターバルでまた同じように動き出す。
それにしても最近は本当に多いなぁなんて思いながら、菊はもしかしたら次にくるかもしれない大きな揺れに備えて身を硬くし神経を尖らせた。
が、菊の耳に届いたのは大きな地鳴りではなく。
『あんっv』
壁越しから聞こえてきた甲高い女性の声。
あ・・もしかして、これって・・
そんなことにいちいち赤面する年でもないけれども。
未だ鳴り続けるケースに目をやり、菊は深々とため息を付いてパソコン机をできるだけ隣室との壁から遠ざけた。
とりあえず、イヤホンで音楽でも聴いていよう。
「・・・・ってことがあったんですよ」
目の前で、声を殺して笑い続けているフランシスに菊は眉をひそめた。
「笑い事じゃないんですよ」
「いっ、いや・・・だってさ・・・」
ひぃーひぃー苦しそうにしながらも、彼の笑いは止まらない。
「じっ・・・地震だって思ってたって・・・」
「ボロいアパートだとは思ってましたけど、まさかSEXの動きであれほどゆれるなんて思わないじゃないですか」
そう言ったら、こらえ切れなくなったのか思いっきり声を上げて爆笑された。
あー、きっとこの声も隣に聞こえてるんだろうな。
都内のほぼ中心に位置し、本棚やフィギュアケースが置けるだけの広さを兼ね備え、収納つきで、バストイレ別、そして家賃5万5千は確かに破格だと思う。
築年数は古いし、お風呂も独立してあるとはいえ平成の世の中では珍しく、給湯ではなくわざわざガスで火をつけるタイプのバランス釜だけれども菊は比較的この部屋を気に入ってはいた。
ある一点を除いては。
とにかく煩いのだ。壁が薄いのか、声もよく響く。
夜型の菊にしてみれば、深夜の騒音はうっとうしいものの目はつぶれる。けれども、朝方7時からがんがん音楽を流されてはたまったものではないのだ。
世間様と生活時間が擦れていようが、今から寝る身のことも考えて欲しい。
それがあって、家賃は少し高めでも引越そうかなと思っていた矢先の出来事だったのだ。今回の珍事は。
「音楽は駄々漏れだし、隣に友人が遊びに来れば深夜まで笑い声が絶えないしで声は比較的漏れるんだとは思ってたんですけどね。この家、本当に地震が来たとき大丈夫なんでしょうか」
いやー、大丈夫じゃないと思うけどね。
ようやく笑いは収まったものの、未だにニマニマしながら軽い調子でそういうフランシスに、菊はじっとりとした視線を向けた。
大学時代からの腐れ縁で、漫画好きが講じて本職になった菊のアシスタントを時折手伝ってくれるフランシスとの付き合いももうじき7年にもなろうとしていた。
留学で来日し、そのままこちらにいつ居てしまったこのフランス人は菊にとって数少ない大切な友人だ。
話は合うし、料理はうまいし、アシスタントの腕は確かだし。こんな、あけすけな会話だってできてしまうし。
あまり人と一緒の空間にいるのが得意ではない菊にとって、何時の間にか彼は何よりも変えがたい存在になりつつあった。
ただ、一緒にいるのが居心地よすぎて、少しばかり彼との距離があいまいになってきているのが目下の悩みの種だったが。
友人とか仕事仲間とか同窓生とか、二人の関係を表すのに色々なくくりの言葉があるけれどもなんだか最近どれもしっくりこない。
もっと近づけて、親友・・・というのはむずがゆい。
そして、二人の間柄を示す言葉としてもしかしたら一番適切かもしれない言葉を菊はなんとなく理解してはいたものの、それにはふたをしていた。
だって、今更だ。
「だからと言って、隣にうるさいですよなんて無粋なこといえないですし、第一お隣さんだって、まさか声どころか振動が伝わって来てるなんて思いもしてないでしょうしねー」
「言えばいいじゃん」
当たり前のようにそう言われたけれども、それができれば苦労しない。
「言いにくいんですよ。そういうの」
ため息をついたら、そういうものなのかねぇという言葉。
やっぱりそう言うところは文化の違いなのかなぁ。なんて思ってたら、なにやら考えていたフランシスから上がったのは提案だった。
「んじゃあさ」
「はい」
顔を向けたそこにあったのは、それはそれは綺麗な笑顔。
「同じようなことしたら、気付くんじゃない?」
「・・・・・・・はい?」
なにを言っているんだ、このフランス人は。
「え・・・いや、ちょっと!フランシスさん!?」
にじりよってくるフランシスに、慌てて後退する。
「だぁーいじょうぶ大丈夫。お兄さんうまいから」
「いや!そうかもしれないですけど、そうじゃなくって!ちょっと!!」
彼の武勇伝は、様々なところから勝手に聞こえてくるからそういう手の経験が豊富なのは知っているけれども、そんなことは今は問題ではない。
「心配しなくても、お隣さんよりももっと大きな声出させてあげるからねー」
間近に迫った、芸術品のように整った顔がにっこりと笑う。
とん、と背中がついた先は隣とを仕切る壁。
「ちょっ・・・フラ・・ぎゃーっ!!」
そして、菊の最初の叫び声が古いアパート中に響き渡ったのだった。
つ・・・疲れた。
終了後の一番の感想がそれだって言うのは余りに色気がないとは思うけれども、素直な感想なのだから仕方がない。だって、こんなことどれくらいぶりだと思っているんだ。
ちなみに、なにが終了したのかについては聞かないで欲しい。
「最悪です」
「あれ?気持ちよくなかった?」
「・・・・・・」
気持ちよかったけれども、確かに。
言葉に出して肯定することもできず、じっとりと睨んでやったら満足そうな笑みを返された。
むかつく。
「もー・・これじゃあ、本当に引っ越すしかないじゃないですか」
おっさんのあえぎ声なんか聞かされて、お隣さんも可愛そうにと菊は思う。そして、菊はそんな状態のままこの部屋に暮らし続けるほど豪胆ではなかった。
「あー、それはごめんねー」
本当に悪いだなんて思っていないくせに。
どうしようか、本当に。
この部屋も、自分にこんなことしたくせに平然とした顔で笑っているこの男との関係も。
「ところで、菊ちゃん」
「・・・・はい?」
ぐるぐるとした思考のまま、半眼でそちらに顔を向ければすみれ色の瞳がこちらを見つめていた。
「俺のうち、今部屋がいっこ空いてるんだけど」
それは・・・つまりそういうことなのだろう、か。
真意を捉えきれずに返答ができないでいると、あ。とフランシスは思い出したかのように声を上げた。
「あと、もう一つ」
「・・・・・・なんですか?」
「愛してるよ、菊」
気障にウインクを寄越しながら、それでもこちらを見つめる瞳はそんな軽さに似合わず真剣で。
友達から一線を越えて、遅まきながらの愛の告白に菊はため息をついた。
「・・・私もですよ、フランシスさん」
素直じゃない恋心の、ようやく年貢の納め時。