「幽?」
久しぶりに取りとめもない用事で実家に帰れば、そこには最近姿を見ていなかった弟がいた。
冷蔵庫の中に入っていた缶コーヒーのプルタブを引いたところでリビングに続くドアが開き、こちらをみて瞬きの回数を僅かに増やした相手の名前を呼ぶ。
「兄さんも帰ってたんだ?」
同じ池袋地域に住んでいる時は会わないのに、こうしてめったに帰らない実家で出会うというのもおかしなものだ。
表情は薄いものの小奇麗な顔をしている弟は、芸能界で俳優という仕事をしているおかげでなかなか暇がないらしい。それは売れてきた証拠というもので、不安定な職業についている身内の才能が認められてきた証だと思えば会えないのも仕方ないと思えてくるけれども。
「お前こそ珍しいな」
「うん。今度の仕事がトーク番組なんだけど、過去の思い出の品を持っていかなきゃいけなくて」
あぁ、なるほど。と思う。
今はずいぶん立派なマンションで一人暮らしをしているが、自分の昔の細かなものなどは実家に置きっぱなしになっているものだ。自分とて、普段使うもの以外はこの生まれ育った家にあるのだから分からないではない。
しかし、だ。身内である静雄にしてみれば幽の表情を読み会話することは容易ではあるが、普段は一ミリとも表情筋の活躍しないこの相手とのトーク番組というのはそれは成り立つものなのだろうかと老婆心ながら考えてしまう。
そんなこと先方は百も承知であるだろうし、思うどおりに行かなかった場合の不利益は幽ではなく制作陣にあるだろうから心配する必要もないだろう。
そのくらい、弟のこのキャラクターは確立してきてあることを芸能界に疎い静雄だって知っていた。
「あ、そうだ」
だから、その思考をすぐに消し去り、缶コーヒーに口をつける。砂糖の大量に入ったその飲み物は、昔は好きだったのに今はあまりおいしくは感じられない。
まぁ、飲めそうなものがこれしかなかったからしょうがないけれども。
そんなことを考えながら、冷えた缶から伝わる水滴を払った静雄に幽が思い出したように顔を向けた。
「兄さんって、ライラのファンだったよね?」
「はぁ!?」
突然の幽の問いかけに、静雄は思わず変な声を上げていた。
目を丸くしてこちらを見る静雄に、幽は予想通りだなと思いながらその反応を受け止めていた。
静雄の手の中で小さくなったスチール缶の中からコーヒーが飛び出すのを視界におさめながら、幽は瞼を2、3度瞬かせただけで再度兄に変わらぬ表情で問いかける。
「昔のライラとのポラがでてきたんだけど、いるかなって思って」
ライラ、という言葉にぴくりと静雄の指先が反応した。
幽の指先に挟まっているのは、一枚のポラロイド写真。
かつての仕事の折に撮られたそれは、世間一般に流出などすることのない代物だ。その場での雰囲気を試し撮りするために使われたそれは、ファンから見れば貴重な一枚だろう。
ずいぶん昔の話だ、と幽は指の間に挟まったものを見ながら思う。
自分の初期のころの作品だ。ライラにとっても確か2作品目の仕事だっただろうか。
デビューと同時に爆発的な人気を誇ったライラとの共演において自分は添え物のような役割で中心はライラだったが、幽はそのことを悔しく思ったことなどない。
それどころか、あんな仕事は今後できないのではないかと今でも思っている。
自分よりも小さな子供だった。
なのに、傍にいるだけで全身が震えた。何が、というのを言葉にして表すのは難しいだろう。
ライラという相手に出会ったことは、幽にとって革新で衝撃だった。
そこにいるだけで、自分に絶大な影響を与えることのできる存在。
そんなものに出会ったのは、幽にとって二人目だった。もちろん、一人目は目の前の兄であるけれども。
「・・・・ファンじゃねぇよ」
苦虫を噛み潰したようにそう答えた兄に、幽は不思議そうに首をかしげる。
「だって、兄さん芸能人とか興味ないのに、唯一ライラだけはなんだか気にしてたじゃないか」
「・・・・んなことねぇ」
つぶれたはずのスチール缶がまたさらにめきっと音をたてて小さくなる。本人の内心の動揺を表してるようだなと、幽は思う。
「あるよ。俺の仕事見るときはいつも俺のことは見ても相手のことなんか眼中にも入れてないのに、ライラとの仕事の時はライラしか見てなかったじゃないか」
普段率先してテレビや雑誌なんかは見ない静雄だが、幽がでればもちろん目にすることはある。その、僅かな違いを見抜かれたのだと知って、静雄は言葉を詰まらせた。
「だから、好きなのかなって思ってたけど」
てらいなくじっと静雄を見上げれば、しばらくして「うぁーっ」と唸りがしがしと髪をかき回す。それが唐突にピタリと止まり、うつむき加減だった静雄の口からぼそりと言葉が漏れた。
「・・・・悲しそうな目をしてんのが、気になっただけだ」
「悲しい?」
ライラの作品は、どちらかといえば挑発的なものが多い。厭世感を感じさせるものもないとは言えないが、ライラを見て真っ先に悲しいという表現が出てくる人間は少ないだろうに。
「小さいくせに、あんだけ持て囃されててもずっと変わらなかっただろ」
瞳の奥の色が、と静雄は言う。
「なんつーか・・・うまく言えねぇけど、見てられなかったっつーか、そういうことだよ」
当たり前のようにライラをそう評した静雄は、話はそれで終わりだとばかりに語気を僅かに強めた。
手についた甘いコーヒーを洗い流しに台所の蛇口をひねる。
乾いてべたべたとくっついていたそれは、簡単に静雄の手から流れ落ちた。
「そういえば」
と、幽がぽつりと口を開く。
「ライラとの仕事を担当してたプロデューサーさんが、もしライラが帰ってきたら一緒に仕事する気はあるかって聞いてきてた」
忽然と姿を消したライラ。その現在の行方を、もちろん共演した幽も知りえるはずがない。
彼の言葉は、本当に他愛の雑談で可能性の話としてではあったけれども、その中に確かに希望が含まれていたのを幽は感じていた。もちろんそれは、そのプロデューサー自身の願望でもあっただろうが、しかし何らかのソースがあるようにも思える話し振りで。
もしかしたら、と思わないでもなかった。
でも、と思う。
「たぶんライラが戻ってくることはないだろうとは言ってたけど」
続いた言葉に、こちらを振り返ったサングラスの奥の瞳が少し落胆したような光で揺れた。
幽自身も、もしもう一度ライラと共演できるのならば何が何でも駆けつけるだろうと思う分、静雄の気持ちはよく分かる。
「残念?」
「うるせぇ」
幽の問いかけに静雄はぺちゃんこになったスチール缶を捨てると、くるりと幽に背を向けた。
「ポラ、いらないの?」
玄関に向う兄に向って再度言えば、なんとも微妙な沈黙の後低い声が返ってくる。
「・・・いらねぇ」
そう、と幽はその話題を引きずることなく素直に頷いた。
「行くの?」
「あぁ」
静雄だとて暇ではない。これでも一応自分の生活は自分の稼ぎで生きているのだ。たとえどんなに常人離れした存在であっても、金がなければ生きていけないのは人という常人の中に囲まれて生きるものの性である。
「じゃあ、またね」
「忙しいのは分かるが、体壊すなよ」
「それは兄さんに言えることだよ」
言えば、ぎゅっと眉が寄った。どうやら一応静雄自身にも自覚はあるらしい。
「・・・あと、たまには顔出せ」
自分を心配する兄の言葉に、幽は嬉しそうにこくりと頷く。
「うん」
幽の表情はひとつも変わらなかったが、その反応に静雄はどこか安心したように玄関へと足を進めた。
仕事に向った兄の背中を見ながら、幽はこのタイミングで兄に会ったことは何かの予兆なのではないかとそんなことを思う。
静雄が他人に興味を示すことなどあまりない。他人が静雄を怖がるからということも在るが、静雄自身、自分や家族以外の者に対しての執着の薄さを本人は理解しているのだろうか。
(臨也さんは別だろうけど)
あれは、マイナスすぎてその辺のくくりを逸脱しているものだから数に入れるには違和感があるので除外するとして。
実は結構誰にでも優しい静雄が、誰かを好きになるなんてことを幽は知らない。
(でも、ライラには興味がある)
芸能人とか一般人とか、そういう隔たりに関しては幽の中にボーダーはない。
自分がそうであるからではなく、ライラと静雄にとってそんなものはかけらも関係ないと幽は本気で思っていたから。
(だって・・・きっと同じだ)
もし、自分の兄がライラと出会ったらどうなるだろう。それはなんだか楽しい想像のような気がして、幽は変わらない表情の奥でくすりと笑った。
それは、黒髪の純朴な少年が池袋に足を踏み入れる少し前のお話。