菊はそこそこ売れてる漫画家。フランシスはその恋人。


 
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 しゃかしゃかと、ペンが紙の表面を走る音がピタリと止まった。  

 先ほどまで自分の背後から延々途絶えることがなく聞こえていたそれは、今はなかなか再開される気配もない。  

 それに気付いて、ソファに寝転がったまま雑誌を眺めていたフランシスは、うーん。と首をひねった。  

 締め切りまで後5日。進行速度は悪くないから、今回は自分の手伝いもいらないと言って笑っていたのは昨日のことだ。  

 けれどまぁ多分、そんなことは関係ないのだろう。  

 彼の『発作』は、決して定期で起こるものではなかったから。  

 長い長い沈黙が落ちる。少し前も会話などはしていなかったが、作業音がBGMのようになっていて決して気まずいものではなかったのだが。  

 ひざの上に載せていた雑誌から目を上げ、背後を向く。  

 そこには黒髪に眼鏡をかけジャージ姿の恋人が、机に向かって俯いたまま動きを止めていた。  

 時刻は夕方5時。  

 ちょっと早いけど・・・まぁ、いいか。  

 ぱたんと雑誌を閉じてソファから立ち上がる。  

 じっと目の前の髪を見つめる菊に声をかけることもなく、台所へと向かう。  

 冷蔵庫を開けて、その中から野菜をいくつか取り出す。じゃがいもとにんじんとたまねぎと。あったかいものがいい、そう思いながら。  

 牛乳はある。肉も冷凍庫に入っている。それを思いながら、じゃがいもをざっと水で洗い、包丁を手に持った。  

 とんとんとんとんと、一定間隔でたまねぎを刻む音だけが部屋の中に響く。  

 隣で沸騰している鍋の中には、炒めたにんじんとじゃがいもが既に入っている。  

 たまねぎも軽く炒めてから、この中に投入されることは既に決定事項だ。  

 とん、と最後のひとかけらを切り終え、僅かに滲んだ涙をぬぐう。酷く痛いわけではないが、たまねぎが少しだけ目に染みた。  

 じゅう、という音がフライパンからしてそこにたまねぎをぶち込めば、しばらくしてバターのこげるいい匂いが漂う。きっとこの匂いは、菊のほうにも届いているだろう。  

 さっと火を通し、たまねぎも鍋の中へ。  

 後は、肉の下ごしらえをするだけだ。  

 ちらりと台所のカウンター越しに菊を見やれば、そこには黒い頭は見えなかった。  

 気付かれないようにリビングを見やれば、リビングの中央にあるテーブルの向こう側。作業机からいつの間に移動したのかソファに頭を乗っけて床に転がっている。だらりと垂れ下がった両腕。うつ伏せでソファに沈んでいる頭は、苦しくないのだろうか。というか、ソファが若干高いせいでその態勢自体が苦しそうだ。  

 もっと、寝やすい寝方があるだろうにとは思うが、たまに菊はそういうことをする。  

 苦しい方がいい、というわけではないだろうが不可解な不便さを好む。  

 だから、特に何かを言うことなくフランシスはまたキッチンへと顔を向けた。  

 ぐつぐつと、鍋の中はゆだっている。  

 完成まではまだかかるとは分かっていたが、それがどうしてももどかしく思えた。

 

 

   

 ことんと、テーブルの上に皿を置く。  

 白い液体から暖かい湯気が立ち上っていた。野菜の大量に入ったクリームシチュー。ブロッコリーが入ってるほうが菊は好きなのだが、買い置きがなかったから許してもらおう。  

 「はい」  

 クリームシチューのお供に、菊は白いご飯を好む。俺はパンのほうがいいから、買い置きのミルクパンを自分用に用意して、苦しそうな態勢のまま微動だにしていなかった菊の前に置いた。  

 スプーンを用意して戻ってくれば、起き上がった菊がシチューをじっと見つめながら座っていた。  

 はい、と渡せば、それを受け取る。  

 自分も菊の正面に座って、食事の前の祈りを簡単に奉げてからスプーンを手にした。  

 固まったままの菊に声をかけることなく、シチューを口に入れパンに手を伸ばす。シチューはおいしかったが、もう少しだけ煮込めばよかったかと後悔もした。  

 スプーンを握った菊は、その先をまだ湯気のたつシチューの中にその先端を突っ込んだまま食べようとはしない。  

 かちゃかちゃと、自分の食事を進める音だけが部屋に響いていた。  

 「私なんて・・・・」  

 菊の声に、手を止める。  

 「私の作品なんて・・・誰も読まないです」  

 ようやく、菊の口が開いた。  

 彼の自己評価は驚くほど低い。  

 そのわりにはプライドは高くて、常に誰かの賛辞を欲しがっている。誰かから認められたい。褒められたい。優位に立ちたい。  

 その気持ちは多分そこらの人間よりもずっと強くて、でもそれを醜い感情だと思っている菊の心がせめぎあって爆発するのだ。自分の才能に絶望して。  

 「待ってる人なんて、いない・・・」  

 俺からしてみれば、絵がかけて話を作れてそれだけですごいことだと思うし、第一それだけで菊の価値の全てかと言えば決してそうではないから正直どうでもいいことなのだけれども、菊にとってはそうではないのだろう。  

 「こんなのを描いているのは自己満足で、どうせ私は・・・底辺の人間なんです」  

 スプーンをシチューに突っ込んだまま、菊は動かない。また、ぴたりと止まってしまった菊を見ながら俺は微笑んだ。  

 「俺は、好きだから」  

 黙りこんだ菊に、ゆっくりと教えるように。  

 「だから、書いてよ」  

 しばらくの沈黙の後、菊のスプーンが動いた。  

 時間をかけて、口元に運ぶ。それが何度か繰り返された後、菊は小さく「おいしいです」とつぶやいた。  

 こんなやりとりは毎度のこと。本当は、自分の弱くて醜い気持ちなんか晒したくないから菊は言うのを嫌がるけども、それを溜め込まれる方がもっと嫌な俺が菊の心の内を言わせている。  

 菊は、自分を肯定して欲しい。  

 でも、愚痴を言ったり弱音を漏らしたりすることは、相手に強制的に自分を肯定してもらう手段であると菊は知っているから、肯定して欲しいと思っている自分がいることを許せない。  

 矛盾の塊だから、菊は抜け出せなくてどうしようもなくなって今みたいになる。  

 菊は欲張りだ。  

 強制ではなく、愛されたいから、好かれたいから。誰からも。世界のすべてから。  

 菊の欲望が果てしないなと思うのはこんな時だ。  

 どんなに俺が愛しても、菊はそれだけじゃ満足しない。  

 菊の作品が好きなのは本当だし、新作を楽しみにしている気持ちに嘘はない。でも、菊と菊の作った作品とどっちが大切かといわれたら、俺は間違いなく菊だと答えるだろう。  

 本当は、苦しくなんてなって欲しくないからやめればいいのにと思うことはあるけれども決して菊はそこから離れることはできないんだろうなと思う。  

 

 

 

   

 俺は、菊が俺を愛してくれればそれだけで満足なんだけどね。