初めて出会った時のその男は、小さく貧弱で、堅く結んだ唇と生真面目そうな瞳が印象的だった。
つるりとなだらかな黒髪と、真っ黒な瞳。
弱っちそうだと侮蔑したファーストインプレッションとは対照的に、こちらの国のことを勉強しにきたのだと真剣な顔をして語る姿には好感が持てた。というよりは、その瞳の中に疑いようもない信頼の光をたたえて見つめられて悪い気がするものの方が少ないだろう。彼は熱心で飲み込みも早く、教えがいのある生徒だった。
目のほとんどを黒目が占めているのではないかと思うほど大きい、深い夜の空の色を映した瞳が自分をずっと追ってくる。自分が彼を捕らえているのかもしくは捕らえられているのか、彼のその瞳が自分を写す何ともいえないぞくりとした感覚。
ただ、ずっと張りつめたような顔をしているのが気になって、自分よりもずっと年下に見える童顔がほころんだら。そうしたら、きっと可愛らしいのに。
交流のなかった遠い遠い東洋の島国。
誰かを介しての噂話でしか聞いたことのなかった相手。
思えば、彼と接したのは今考えればわずかな時間だっただろう。
人にとってはずいぶんと昔、けれども2千を越えるという時を生きていた彼にとってはきっと瞬きほどの過去の話。
別れ際、差し出した手を戸惑いながら握り返してきた薄い手の平が思った以上に固かったことに驚いた。覚えのある、自分の手にだってある豆が潰れた後の皮の固さ。それは確かに、剣を持つ手だった。
男に見えない、エリザベータよりも華奢に見える肢体は、しかし自分と同じく戦いの中に身を置く国であるのだと。
守られているだけではない。
彼自身もまた、自らと同じように自分の足でこの世界の中で生きていくためにあがいている存在なのだ。
変わらぬ表情でこちらに礼を言い去っていった後ろ姿を見送りながら、変化する世界のただ中で彼が直面するであろう地獄を思う。その時、背中を見ながら祈ったものはなんだっただろう。
昔話を思い出しながら、ギルベルトは今朝ルートヴィヒに問い詰められた時から記憶の片隅に引っかかるようにしてどうしても掴むことの出来なかったそれを懸命に追っていた。
なんで、菊にあんなことを言われて頷いたのか。どうして、あんなにも舞い上がるほどに歓喜したのか。
アーサーの言葉で何かが切れた途端あふれるように浮上してきたのは、驚くほどに簡単な答え。
好き、だったからだ。
菊のことが、きっとずっと。
激動の時代の中で、忘れていた。自覚する暇さえ与えられなかった感情の奔流が、怒濤のようにギルベルトをおそう。
細い肩にも陶器のようななめらかな頬にも、片手で掴みきれてしまうほどの手首にも。
そよ風のようなささやかな風にさえ軽やかに舞う絹のような黒髪に指を通したら、どんな心地がするのだろうなんて。
手を握る以外、触れることなどできずに。
そして、次に彼に出会ったのは弟と共にであった。けれども、弟に向けられた以前とは違う表情から目が離せなくて。
ほんのわずかの変化ではあったが、ルートヴィヒやフェリシアーノに向けられる柔らかい表情に胸の奥がぎゅっと捕まれた心地になった。近くにいるはずなのに、どこか遠い。
それが、ギルベルトの心をまた濁す。
何度も出会って別れてすれ違って。それは初冬の雪のように、ただ静かに積もって消えてまた積もっていった。
気づかぬうちに、けれど確実に育ってきた心。
けれども、時代が許さなかった心。
そんな暇も機会も与えられることなく。
時を経てその悲願が棚ボタと言われようが達成された今、じゃまされるいわれは誰にだってない。
恋だって愛だって、もう好きにやっていいはずだ!
「特にてめぇなんかに、渡すと思ってんのかっ!変態!」
キツく目をすがませて指差すギルベルトに、ひくりとアーサーの唇がゆがんだ。
「やる気か?」
「そっちこそ、ぐだぐだいってんじゃねぇよ。負っけ犬」
「・・・っ!よぉーしっ!今すぐその口を塞いでもらいてぇみたいだな!」
アーサーの手の中の鉄の塊がギルベルトに向く。
「兄さん!」
焦るルートヴィヒをよそに、ギルベルトは自分に向けられた銃口から目を離すことはない。
アーサーの指がトリガーにかかる。力を込めた人差し指がそれを引くと同時にギルベルトはその場をかけだしていた。
左肩に熱い衝撃が走るがそのくらいは想定内だ。激情に刈られた銃の精度などたかがしれている。
わずかに血のにじんだ左肩を押さえることもなく、こちらに向けて掲げられた右手を抜けアーサーへと当て身を食らわせようとしたギルベルトは、その直前視界の隅にはいった存在に動きを止めた。
「フラ・・・」
「はい、ぼっしゅーっと」
「なっ・・・!」
急に取り上げられた鉄の塊は、今はいつの間にか背後に立っていた腐れ縁の手の中に。
「こんな洒落にならないもんを持ち出すんじゃないよー」
によによと笑みを浮かべるフランシスに、アーサーはぎりっと視線を向けた。
「アルフレッドも、旧型だかなんだか知らないけど丸腰の相手にこれは反則かな」
その言葉に、アルフレッドは視線をそらせる。まるで、いたずらを見つかった子供のようだと思いながら、大事に至っていないことにフランシスはほっとした。・・・まぁ、家の半壊には目を瞑るとして、だ。
「・・・・・邪魔する気か。フランシス」
もちろん、止められたアーサーとしてはそれどころの話ではない。
「いやぁ?そーゆーつもりはないけどねぇ」
人を射殺せそうな視線を間近からうけても、フランシスは一切堪えた様子もない。慣れた様子で、ただ苦笑を深めるばかりだ。
「やるなら、正々堂々と。でしょ?」
ぽいっと鉄の塊を遠くへと放り投げる。
「愛を掛けて戦うのは、お兄さん的には大歓迎だからね」
そういってフランシスは、慣れた仕草でウインクをした。