廊下を歩きながら、フランシすはくあっと大きく口を開けた。
肺の奥から吐き出したあくびは、自分以外誰もいない廊下に霧散していく。
廊下に沿うようにして等間隔に並んだ大きなガラス窓からは温かい光が差し込んでいて、透明な板を挟んだその向こうには、暢気な青い空が広がっていた。
(こんな天気の日は、のんびり昼寝でもしたものだけどね)
許されないささやかな願いを思い浮かべながら、フランスはふうと肩を落とす。
会議の時間までは、あと30分もあった。
こんなに早く会場に着いたのはいつ振りだろう。ドイツ辺りが聞けばそれが当然なのだと怒鳴られるのは必至だが、フランスにしてみれば無駄に早い時間から仕事場に借り出されるのは本位ではなかったのだ。
だいたい、午前中にもどうしてもはずせない仕事が入っていたのがいけない。さらに、そこにいた人間たちがフランスの行動を熟知しているのもいけなかった。
ほんとうならば時間までカフェでのんびりしていたかったのだが、いかんせん彼らの指示を受けた送りの人間たちによって強引に会場の前まで車をつけられ、ぽいと建物に放り込まれたのだ。
扱いばかりがうまくなって、国としての威厳なんかこれっぽっちもないなと思う。別にフランスはそんなこと気にしないが、しかしもう少し好きにさせてくれればいいのにというのが本音だ。
まぁ、あのままフランスを野放しにしてのんびりなどさせれば確実に時間に遅れることは間違いないのだから彼らの選択は正しいのだろうけれども。
たすっ・・・たすっ・・・。と、革靴がゆるやかなリズムを響かせる。
薄いカーペットの敷かれた廊下は、足音を吸収して響かせることはない。それでも、靴底と床は摩擦してかすかに音を立てた。
たすっ・・・たす・・・。
フランスの心境を反映するように、その足取りは重くて遅い。
どのみち、こんな時間になんか誰も来てはいないのだ。いや、まぁもしかしたらそろそろ日本やドイツあたりはいるのかもしれないが。
(あぁ、そうか)と思う。
時間に厳しい日本が、もしかしたら一人でいるのかもしれないという期待がフランスの顔に浮かぶ。
うるさい坊ちゃんや大きな子供がいないのならば、ゆっくり話も出来るだろう。
(うん、悪くない)
それに、フランスは今日日本に会うことに、いつもとは違う楽しみがあった。
先月彼の家を訪れたときに、土産として渡した小さな四角い箱。
ふふっとフランスは表情を緩める。
少しだけ、歩調が早くなるのを自覚しながら。
フランスはきれいなものが好きだ。
物でも景色でも人でも。きれいなものに囲まれていたいと思うから、手に入れられるものならば苦労を惜しまず手に入れる傾向がある。
それがたとえどんな些細なものであっても、そして結果がどうであっても、手に入れる努力をしてみせる。それが、フランスの習慣になっていた。
だって、本当に欲しいものはなかなか手に入れることが出来ないのだから、手に入れられるものくらい自分のものにしておかなければ悲しすぎるだろう。
そんなフランスのまわりはいつだって、欲しいもので溢れていた。
それはいつの時代でも。そう、それは今だって。フランスは、欲しくて欲しくてたまらないものがあるのだ。
小さくて可愛くて、触ったら壊れてしまいそうなのに芯の強いきれいなもの。
フランスと同じ、国という存在。
自分のものになる確率は果てしなく低いだろうなとは思っていたけれども、フランスは今そんな彼を攻略中なのだった。
試してみる分には自由だから、フランスは努力を惜しまない。
自分のものになる・・・とは思わないけれども、それでもフランスは彼を欲しいと思ってしまった。
見た目が好き。中身も好き。だって、彼はとてもきれいだから。
それに、彼と自分は趣味も合う。
彼もそれを思ってくれているはずだ。話をしていても、表情が読めないと言われている彼が楽しんでくれているのが分かるくらいなのだから。
彼もこちらのことを決して嫌いではない。いや、むしろ好意を持ってくれているだろうことは確かだ。
悪くはない関係、だと思う。思う・・・・けれども。
(あー・・・・)
そう簡単に彼は決して落ちてはこないだろう。
それはとてもとても残念なことだけれども、フランスはしょうがないと諦めている。
諦めることは、得意なのだ。
だから、そんな難しい彼への攻略の一端としてフランスはひとつの贈り物をした。
自分が選んだ、彼に似合う香水。それも、フランスの努力の一つ。もしかしたら、彼を自分のものにすることが出来るかもしれないための、小さなきっかけ。
フレグランスを普段つけない彼にそれをつけさせることができたら、それは少し彼が自分のもののように思えるのではないかなんて。
そんなことを思って。
律儀な彼のことだ。今日会うことが分かっているのだから、きっとつけてきてくれるだろう。
自分の好みの匂いをさせる彼の姿を思えば、楽しい想像に唇の端が緩んだ。
「フランスさん?」
後ろからかけられた声は、まるでフランスの妄想の中から飛び出してきたようなタイミングだった。
「おはよう日本」
驚きを隠しながら隙のない動作で振り返れば、そこには思った通りの相手がいた。
黒い髪の毛が、差し込んでくる日の光を吸収して丸く光の輪を描いている。それに手を通せば、指どおりは滑らかで引っかかることなどないのだとフランスは知っていた。
それを思い出しながら目を細めたフランスに、日本が淡い笑みを浮かべながら近づいてくる。
「珍しく今日はお早いですね」
少しのからかいがまじった言葉に、フランスはひょいと肩をすくめてみせた。
「日本は相変わらずで」
こんな軽口もきいてくれるようになった関係を、フランスは気に入っている。
日本がフランスに近づく。
1歩、1歩。
そして。
フランスは、花が咲くようにふわりとほぼ無意識に笑みを浮かべていた。
「香水」
甘ったるくなく、さわやかでいて優しい香りが漂う。
「つけてくれたんだ」
匂いはほんの僅かだった。普段の性格も奥ゆかしい日本は、香水のつけ方まで彼らしい。
「えぇ、とてもいい匂いでしたので」
その表情に、彼も贈り物を気に入ってくれたことが見て取れてさらに嬉しくなった。日本の肌につく匂いをさらに堪能したくて、フランスは少しだけ身体をかがめて日本に鼻を近づける。
「うん、やっぱりこの匂いは日本に似合って・・・」
いる。と、続けようとした言葉を飲み込んだ。
「フランスさん?」
言葉を止めたフランスに、日本はこてんと首をかしげる。
「あ・・・。あぁ・・・いや。やっぱりお兄さんの見立てどおり日本に似合ってたからさ。俺ってば天才なんて陶酔しちゃってたのよ」
ぱちんと片目を瞑って見せれば、日本はきょとんとした顔のあとくすくすと笑い出した。
いつもと変らない日本。いつもと変らないフランス。
表面上そう見える光景が、ここにある。
(あぁ・・・)
自分の中の気分が一気に下降するのを感じながら、フランスは変らぬ笑顔を日本に向け続けた。
目には見えない。
今、ここにいるのはフランスと日本だけのはずなのに。
(ほらやっぱり)
その違和感に、日本は気付かない。
(本当に欲しいものは、手に入りなんかしないんだ)
だって、それは日本に馴染みすぎている。自分のものになってしまったものは、自分ではなかなか気がつけないものだから。
(『俺のもの』ってか?)
だから触るなと、見えない何かがフランスに牽制をかけてくる。
(あーあ)
だから、また諦めるしかないのだ。
胸の内の濁った澱を払うように、フランスは日本に向って肩をすくめて笑って見せる。
「さぁて!今日も退屈な進まない会議に参加しますかねーっ」
くるっときびすを返し、フランスはそう大げさに言うと会議室へと足を向ける姿はいつもと変らないフランスのものだ。
「・・・・・進んでもらわないと困ります」
フランスの後に続きながら、肯定も否定もしなかった日本に思わず笑う。それじゃあ、答えを言っているようなもんだ。
変らない、いつもと。今まで自分たちが築いてきた、今のベストな関係。
なのに。
はははっと零した笑いのあと、どうしても心にのしかかってきた思いに押されて肩を落とした。
「・・・・あぁーあ、ほんと思うようにいかないよなーっ」
思ったことはこれから始まる会議のことなどでは、決してなかった。
あーもう、ほんとに嫌になってしまう。ここにこれない身のくせに。その数に入っていないから、横に立てないくせに。
だから、こんな場所でくらい譲ってくれればいいと思うのにそれすら許さないような、そんな気配のもととなった一つの存在を思って。
大きくため息をつけば、日本も「ほんとうに」と苦笑をする。
「どうしてすんなり決まる議題って、こうも少ないんでしょうね」
それに、そだね。と簡単に返した。
そういうことじゃないんだけど、そういう風に勘違いするよう仕向けたのは自分だ。気付いてもらったら困るけれども、気付かれないことにがっかりするだなんてわがままもいいところだ。
けど、しょうがない。この種類の思いがどこまでもわがままになってしまうのは、今も昔も男も女も変わらない作用。
恋、なんてやっかいなものは。
「やんなるなーっ」
諦められる、はずだけれども。きっとそれは、いつもと違ってそう簡単にはいかないのだろう。
送った香水の香りの中からかすかに漂ってきた、勘違いのしようのない匂い。
独特の、煙草の葉の匂い。
香水なんかじゃ打ち消せなかった、それほど日本に染み付いた・・・・
「あーあっ!ほんとやんなるねーっ!」
ここにいないのに存在を主張する相手に向って、俺は大きく降参の白旗を上げたのだ。