・・・あ。
伏せていた顔をふと上げて時計に目をやれば、いつの間にか長針は12時の位置を過ぎていた。
「菊」
目の前で同じように、真っ白な紙に向かって俯いている相手の名前を呼ぶ。
けれども一心上乱に筆を動かす黒髪は顔を上げることはない。その集中力の高さに苦笑しながらも、もう一度その名前を読んだ。
「おーい、菊?」
2度目の呼びかけはどうやら彼に届いたらしい。はっと顔を上げた年上の友人はぱちぱちとその大きな目を瞬かせ、一瞬後にぼんやりと焦点のあっていなかった漆黒の瞳にこちらの姿を映し出した。
「・・・どうしました?フランシスさん」
どこか分からないところでも?そう聞いてくる菊に、フランシスはその問いかけには答えず代わりに極上の笑みを浮かべて。
「メリークリスマス。菊」
菊に分かりやすいように英語でその言葉をかけた。
こちらを見つめていた瞳がわずかに大きく開かれ時計へと視線が移される。
「あ・・・そうですね。そんな時間ですか」
0時を過ぎて今日は12月25日。
今年は昨日からここに詰めていたからミサにも行かなかったなと、フランシスはぼんやりと思う。
クリスマス。イエス・キリストの生誕の日。
本来関係のない菊の国でも、一歩外へ出ればサンタとクリスマスソングの嵐だ。
おとなしそうな顔をして、実は季節柄のイベントごとが大好きだという菊なのだが今回ばかりはそのことを失念していたらしい。
それもこれも、原因は今二人の目の前にある白い紙の束にあった。
「すみません。私がこんな時に呼び出してしまったばっかりに・・・」
助けていただけませんか?という切実な電話が菊から入ったのは2日前。
最初は何事かと思った。重苦しい声はそうそう感情をあらわにしないこの相手から聞けるものではなかったし、今の世界経済を考えれば、その中で大打撃を受けているこの相手に何かあったのかと勘繰ってしまった。が、よくよく聞いてみれば直接的に命に別状があったわけではないらしい。
数日後に迫った年末のとてもとても大切なイベント合わせで、どうしても突発的にコピー本を作りたくなったのに人手がたりないという一般人にとってはどうでもいい、けれども一部の人間にとっては生死にも値する大事件に関することだった。
そして、その一部の人間であり菊の愛弟子を自負しているフランシスは彼の現状を理解しその足で飛行機に飛びのったのだ。
「せっかくのクリスマスを、こんな風に過ごさせてしまうなんて、本当に申し訳ないです」
助かりましたが・・・と、菊は申し訳なさそうに眉根を下げて微笑む。
いつもならば、近くの湾ちゃんに頼むのだそうだけれども、今回は時期が時期だったため彼女は王に国内に引き止められたという。
菊はせっかくのクリスマスなので家族で過ごすのでしょうといっていたが、あの王がそんなことをするとは思えなかった。恐らく、今回の召集を菊の家でのクリスマスパーティーだと勘違いした王の悋気に触れたのだとを想像するのは難しいことではない。
違うんだけどなぁーとは思うけれども、菊に複雑な感情を抱いている王は聞かないだろう。
正直に理由を言ったところで理解のない彼には無駄なこと。
菊を神のようにあがめる湾ちゃんには役目を奪ってしまったことに対しては申し訳ないし可愛そうだとも思うが、今回は感謝だ。
だって、二人きりになれた。
「いーって、いーって。こっちもちょうど予定がキャンセルになったところだったし」
きっとその言葉に菊は、約束をしていた女性に振られたのかと想像するだろう。そう思ってくれればいいと、フランシスは思う。
でも実は、本国でのパーティーを振り切ってきたことをこの目の前の同じ趣味を持つ友人は知らない。
「では、ささやかですが明日の夕飯はクリスマス仕様にしましょうか」
少しだけ、作業の手を休めてお祭り気分を味わうのも悪くないだろう。
「いーねー。お兄さん特製のdinde farcie(ダンド ファルシ)でもご馳走しようか?」
この近所に七面鳥が売っていればの話だが。
そう言ったら、菊はそれは楽しみですね。とふわりと暖かく綺麗な笑顔を浮かべた。
明日には、結局いつもの騒がしいメンツに押しかけられるんじゃないかって思う。
アルフレッドはもちろんのこと、偶然を装ったアーサーとか仏頂面の王とか。王にくっついてくる湾ちゃんを宥めるのは俺の役目なんだろうな。あぁ、フェリシアーノとルートヴィヒも忘れちゃいけない。
きっと、今年もにぎやかで平和なクリスマス。
けれど、今はこの時二人でいられることに感謝しよう。
来年には期待しないけど、またいつでも空けておくからさ。本当は、もっと色気のあることで二人っきりがいいのだけれど、きっとそれは叶わぬ願い。
けれど、ひそかな思い人とこの大切な日を過ごせる奇跡に。
Joyeux Noel !