タクシーなんて贅沢だなと思いつつ、菊は車窓から見える風景に目を移す。
急ぎの用であるし、世間にうとい隠遁者の自分が幼い子供を2人も連れて人の多く行き交う場所へと行くのは心許ない。
だから、この選択は正しいと思うのだけれども外への意識があった昔も平時ではタクシーなどと言うものはお金の無駄だと思っていた意識が抜けないらしい。
急な外出の上、慣れない乗り物で未知の土地へと連れて行かれる子供2人は陰鬱な気分の菊とは対照的にきらきらと瞳を瞬かせて窓の外に釘付けになっている。
何かを見つける度に歓声をあげるアルフレッドの隣で、それよりも大人しいもののアーサーも食い入るようにして2人でくっつき合いながら窓にへばりつく。
2人も、家にいるときよりも楽しそうだと菊はその様子を眺めながら思った。
あの家の中は菊にとっては何物にも換えがたい居心地のいい空間であり、それ以上はないのだけれども幼い子供たちにとってみれば決してそうではないのだろう。
「キク!あれでんしゃ!」
アルフレッドに名前を呼ばれてそちらの方を見れば、窓の外遙か遠くで銀色の車体が通過していくのが見える。
「よく知ってますね」
その言葉に、アルフレッドはうれしそうに顔をゆるめた。
「楽しいですか?」
そう声をかければ、頬を紅潮させたアルフレッドが勢いよく頷く。
同じくその隣で、きらきらと目を輝かせたアーサーもこくりと力強く頷いた。
本当に自分はだめだなと思う。
2人が大人しく家の中にいたのは、自分と同じく家の中が好きだったからではなく我慢していたのだろう。小さい子供だと思っていたのに、気づけば自分が気をつかわれている。
他人の希望を先回りして読むのが得意だった。
相手が何をしたいか考え、どんな言葉をほしがっているのか考えながら生きていた。
分からなかったのは相手が小さいからではない。自分が変わったからだ。
「今度、どこかに遊びに行きましょうか?」
そういえば、小さな金色の髪が2つ、勢いよくこちらを振り向いた。
「いくっ!」
「・・・っ」
即答するアルフレッドと言葉を飲み込んだアーサー。
「どこが良いですか?」
重ねて聞けば、アルフレッドからはゆうえんち!と間髪入れずに声がかかった。
「アーサーは?」
じっとこちらを見上げるアーサーに、キクは自分の視線を合わせる。
「どうぶつ・・えん、か、すいぞくかん・・・」
小さく出てきた言葉に、菊はにこりと笑う。
人が多いところは好きではない。それは、以前も今も変わらない菊の本来の性格だ。遊園地も動物園も水族館も、人が集まるテーマパークに好き好んで出かけようとは思わない。
けれども。
「いいですよ」
そう言えば、アーサーの顔が喜色により紅潮する。
「今度、またどこに行くか決めましょうか」
はしゃぐアルフレッドと始めて見る嬉しそうなアーサーを見ながら、菊は自分でも知らぬうちにゆうるりと頬をゆるめていた。
フランシスへの書類の引き渡しは、思った以上にあっさりと終わった。
住所を告げればタクシーの運転手は簡単にそのビルの正面玄関へ車を付けてくれた上に、その玄関にフランシスが出迎えてくれたからだ。
ありがとうっ!と大仰に感謝の意を表したフランシスはもう慌てて階上へと去っていってしまい、拍子抜けするほど短時間で用事が終わってしまう。
さて、どうしましょうか。
そう思ったところでとりわけ用事もない。こんな時間に子供を連れた菊の姿は珍しいのか、すれ違う人の視線を浴びながら菊は2人の子供を見下ろした。
はしゃぐかと思っていた2人は、思った以上に大人しい。普段も大人しいアーサーはともかくとして、アルフレッドまでが菊の足にしがみつくようにしてあたりを見まわしているの少し意外に思えた。
「帰りましょうか?」
問えば、きゅっと手を強く握られる。
自分だとて、居心地のいい場所ではない。数時間であったはずなのに、早くあの家に帰りたいと思いながら足を踏み出した菊の背後からかけられたのは、記憶の隅に巣くっていた声音だった。
「・・・・菊?」
振り向けば、そこには栗色の髪をした見知った顔が立っていた。こんなところで、と思うもののあのくるりと一部が丸まった寝癖のようなくせっ毛は間違いない。
「フェリシアーノ・・・くん?」
「ヴェーっ!やっぱり菊だぁーっ!」
その名を呼んで首を傾げれば、驚くような勢いで抱きつかれた。
「どうしたの?どうしたのー?あ、フランシス兄ちゃんに会いに来たの?」
「え・・・、あ、はい」
自分がフランシスと再会したことを、フェリシアーノにも彼と親しいルートヴィヒにも話していない。
どうして知っているのだろうと思ったが、そういえばフェリシアーノもデザイン関係の仕事をしていたのだと思い出す。自分が言わなくても、自然と耳にはいるのは必然だろう。
「聞いてたんですか・・・?」
「うん。フランシス兄ちゃんから」
少し気まずそうな表情はフェリシアーノには似合わないなと菊は思う。そうさせているのは自分だけれども。
「・・・・すみません」
思わず謝ると、フェリシアーノはぱっと笑顔を見せる。
「なんで菊が謝るの?」
その問いに、またすみませんと言葉が出そうになり直前で飲み込んだ。経験上たしなめられるのは分かっていたので。
言葉を飲み込んだ菊に、フェリシアーノは話題を変えるようにところで、と微笑んだ。
「その2人がアーサーとアルフレッド?」
のぞき込んだ菊の後ろ側には、相手を警戒するような色違いのに対の瞳がフェリシアーノを見上げている。
「えぇ」
「こんにちは。俺はフェリシアーノって言うんだ」
しゃがみ込み、目線の高さまで合わせて手を差し出すフェリシアーノに2人は何故か警戒心を解こうとはしなかった。
「ヴェーっ、嫌われちゃったかな?」
言葉に反してショックを受けていないようなフェリシアーノは、立ち上がって肩をすくめる。
アルフレッドの方はそれほど人見知りするたちだとは思えない。現に自分の時だって一瞬でなつかれたのだ。自分とフェリシアーノを比較すれば子供受けするのはどう考えてもフェリシアーノである。
どうしたんでしょうか?と首を傾げながら、慣れない街での雰囲気に飲まれたのかと菊は彼らの様子を結論づけた。
「ねぇ、菊」
名前を呼ばれれば、フェリシアーノの視線は子供たちから自分に向けられている。少しだけトーンの変わったフェリシアーノの声に菊は目の前のあま色の瞳を見返した。
「フランシス兄ちゃんは・・・まだ知らないの?」
一瞬、菊の呼吸が止まった。数ヶ月前に菊に起こった変化は、美しいものに動かなくなった心だけではない。返事のない菊に、フェリシアーノは複雑そうな表情を向け、そっかとつぶやいた。
「ゆっくりでいいよ。俺も、ルートヴィヒも言ったりはしないから」
少しだけうつむいてしまった菊の頭をフェリシアーノは優しくなでる。
「またいつか、俺の手料理を菊が食べてくれる日がくればいいなって思うよ」
「・・・・はい」
穏やかな彼の言葉に、菊は少しだけ悲しげな笑顔を向けた。
くいっと、両側から服の裾を引かれる。
振り向けば、どこか泣きそうな顔をした2人がこちらを見上げていた。
「・・・どうしたんですか?アーサー」
問えば、何度か口を閉口した後結局言葉は紡がれることはなかったが、不満を抱えていることだけは分かる。
「アルフレッド?」
泣くと言うよりはふくれっ面のアルフレッドは、菊の問いかけに「かえる」とだけつぶやいた。
「え?」
アルフレッドだけではなくアーサーまで。とたとたとビルの外に駆けていく2人の突飛な行動を見ながら、菊は追いかけることも忘れて思わず首をひねってしまった。
「どうしたんでしょうか・・・」
「2人とも、菊のことが好きなんだねーっ」
「・・・え?」
フェリシアーノの言葉に、ますます菊は不可解な気持ちになる。この逃げられたような状態で、どうしてそういう言葉が出てくるのだろう。
そんな菊の様子にフェリシアーノはどこかいつもと違う表情でくすくすと笑った。
「ほら!行ってあげてっ!」
背中を押されて、思わず足を踏みだす。振り返れば、いつもの笑顔のフェリシアーノがこちらに手を振っていた。
久しぶりに見る、心が温かくなる笑顔で。
「あの・・すみません、この埋め合わせはまた必ず」
ぺこりと頭を下げ、菊は小さな子供たちの後を追ってかけだした。
「ふたりとも・・・っ!」
追いかける菊に、周りの視線が集まる。建物を出てすぐに曲がってしまった小さな姿を見失うかとひやりとしたが、しかしそれを追いかけて同じく角を曲がった菊の前に2人の子供は手を繋ぎながら立ち尽くしていた。
(よかった)
その姿にほっとする。
菊自身もよくわかっていないような場所で迷子になられたら、どうしたらいいのか分からないところだった。
「二人とも、帰りましょうか」
この辺りは交通量も多い。もし・・・と思って、菊は最悪の想像に反射的に蓋をした。
「アーサー?アルフレッド?」
近づいて2人の傍にしゃがみこむんで顔を覗き込めば、やっぱり機嫌は戻っていない。
理由は分からなかったが、もう一度名前を呼ぶ。
「アーサー?アルフレッド?」
「なかよくしてるの・・・いやだ・・」
「・・・は?」
「キクが・・あいつとなかよくしてるの・・やだ」
あいつ、とはフェリシアーノのことだろうか。
「キクは、ぼくのっ!」
「・・・・はぁ」
予想外の答えに、ぱちぱちと目を瞬かせた。
「アーサーも、私がフェリシアーノくんと仲良くしているのがいやだったんですか?」
聞けば、答えはないもののぎゅっとかみ締めた唇がそれを肯定している。
ふむ。と菊は考える。じっと子供たちはなにやら頑なで何か答えを出さなければ納得しそうにない。
多分、彼らが求めている言葉を菊は知っている。けど、その言葉をどうしても口に出すことは出来なかった。
「フェリシアーノくんと仲良くしないことは、出来ません」
菊の言葉に、2人の子供の顔がゆがむ。泣きそうだと思いながらも菊は自分の言葉を撤回する気はなかった。
彼は、自分にとってとても大切な友達なのだ。たとえ今子供に対する口だけの約束であったとしても、言うことは出来ない。
「けど」と菊は続ける。
「フェリシアーノくんよりも誰よりも、何かあったときは必ずアーサーとアルフレッドを優先させます」
きょとんと、二対の色違いの目がこちらを向く。
「フランシスさんよりも、フェリシアーノくんよりも、他の誰よりも。アーサーとアルフレッドのために」
それならいいかな、と菊は思う。別に、他に自分の使い道などないのだから、アーサーとアルフレッドのために使うと約束するくらい菊にとってはなんでもないことだった。
「・・・ほんと?」
「はい」
「・・・ずっと?」
いつもの過剰なほどの自信はすっかりなりを潜め、不安そうな瞳が菊を見上げる。
「はい」
それにしっかりと頷けば、ばすっと勢いよく抱きつかれた。
じっと見上げてくるアーサーにも、ふわりと笑う。
「本当ですよ」
はじめて菊は、自分のこの先の人生をこの2人のために生きてみてもいいかなと思っている自分を自覚する。いらないのならば、この2人にあげてもいいと。
そこに生まれたのは、なくしたと思っていた菊にとっての生きる意味だった。