「えっ?会社に・・ですか?」
『そーなんだよぉーっ!お願いっ!菊ちゃん!』
電話越しに、情けない顔をしているであろうことが容易に想像つく声でフランシスが懇願する。
フランシスから電話があったのは、お昼ご飯を食べ終わってしばらくした午後1時過ぎ。
オムライスを作って3人で食べたばかりだった。ふわふわ卵のオムライスは昔から菊の自信作ではあったが、2人の食べっぷりから見ればどうやら成功していたらしい。
ごちそうさま!と元気のいいアルフレッドと、静かだがきっちりと完食したアーサーは今は日当たりのいい縁側で仲良く遊んでいる。
「でも・・・・」
『頼むよーっ!今日、プレゼンの資料なんだっ!ないと、俺これから先仕事もらえなくなっちゃうかもしんないんだよっ!』
渋る菊に、フランシスはかさねて頼み込む。
『今からだとまだこっちで準備あるから抜けらんないし、第一家からこっちの往復なんてタクシー使っても間に合うか分からないしっ!』
正直、あまりうんとは言いたくなかった。もとよりあまり人の多い場所は好きではない。せわしない場所も、もちろん苦手だ。その傾向が強まった今、両方を兼ね備えたオフィス街へなど進んで足を踏み入れる気になれるわけがない。
「だったら、バイク便は・・・」
『それも問い合わせたけど、もうギリギリだから間に合うか分からないって!頼むよっ!きくぅ〜っ!』
重ねての提案も一蹴された。ふう、と菊はため息を付く。
ここまで言われては、元来押しの強いほうではない菊は断れない。
わかりました、と諦めたような声を電話口に吹き込む。
「いいですよ。黒い筒ですね」
そう言えば、受話器の向こうからは惜しげもない喜びの声が上がった。
『ありがとぉーっ!菊っ!たぶん俺の仕事部屋にあると思うから、勝手に入っちゃっていいからねっ!』
最後にチュッというキスの音までついてきたのだから苦笑するしかない。
「はいはい」
彼の頼みごとのうまさに感心しながら、菊はフランシスが告げる住所を走り書きでメモっていく。
実際に彼の仕事場まで行ったことはないが、街自体は菊の知らない土地ではない。この分ならば、迷わずにつけるだろう。
「2時までにですね。分かりました」
『うん!ごめんねっ!ありがとっ!』
じゃあ、よろしく。と言って切られた電話に、菊はふぅとため息をついた。
壁にかかった時計を見る。ここからならば、30分と少しあれば到着できるはずだ。問題は久しぶりの遠くへの外出であるという点だが、タクシーでも使えば問題ないだろう。この時間ならば、それほど道は混雑していないはずだ。
そうと決まれば、ぐずぐずしてはいられない。
まとっていたエプロンを脱ぎ、縁側の子供たちの下へ。遊ぶ彼らに簡単に声を掛けて、隣家へと菊は足を向けた。
近頃は慣れてきた隣家の構造を頭に描き、部屋の奥へと進む。
2階はあるが小さな子供主体の日常では生活空間のほとんどは1階に固められている。その一番奥にフランシスの仕事部屋はあった。
壁の両側に並んだ資料、中央に置かれた少し変わった形をしたデスクの上には大小さまざまな紙が散らばっている。
ブラインドが下ろされたままの室内は晴天の昼間にしては少し暗いが、それでも照明をつける必要がないくらいには明るかった。
デスクに近づく。案の定、座り心地のよさそうな椅子の上に無造作にそれはあった。
持ち上げてみれば、黒い筒は思った以上に軽かった。中身が紙であるということもあるだろうが、筒自体も非常に軽いことに僅かながら拍子抜けした気持ちを抱く。
こんな目立つところにあってどうして忘れるのだろうとは思うけれども、忘れ物など得てしてそういうものだろう。
後は、アーサーとアルフレッドを連れて、と考えながら菊が顔を上げたとき。それは視界に飛び込んできた。
茶色い、なんの変哲もないフレーム。僅かな光彩に輝くガラスの表面。その向こう側には菊もよく知っている顔があった。
フランシスのデスクの隅に置かれた写真たて。その中に飾られた写真は、色あせたようには見えない。
それはまるで、まだあの出来事がそれほどの年月が経っているわけではないという証のようだった。
これを見るのは、一体どのくらいぶりだろう。
そこには自分とフランシスとそして1人の女性が写っていた。
確かこれは、フランシスを介し自分と彼女が出会ってからしばらく経った時のものだろう。人見知りの自分が、両側から肩に手を置かれながら緊張も見せずに笑っている。
同じものを菊も持っていた。嬉々とした彼女から、焼き増しされたもの。
自分の分は、処分してしまったからもう手元にはない。ネガは彼女が持っていたはずだから、ならば、もしかしたらもうこの世にはないのかもしれない。フランシスの持つ、この1枚だけ。
幸せそうな笑顔を向ける男女の間に挟まれた自分。
笑顔の裏であの時の自分は、一体どんな気持ちでカメラの前に立っていたのだろう。
まるでそれを他人事のように眺めながら、菊は視線を写真からはずした。
そんなことに構っている場合ではない。早く自宅へ戻らなければ、置いてきてしまった兄弟の様子が心配だしぐずぐずしていれば約束の時間に間に合わなくなってしまうかもしれない。
後ろ髪を引かれる様子もなく菊は部屋を出る。
パタンと閉まった部屋の中、ぼんやりとした光に照らされ写真の中の3人は変わらぬ笑顔を浮かべていた。