診察の結果は、決して悪いものではなかった。
鼻を打ち付けて毛細血管を切ったことによる出血らしいが、骨などに異常はないと言う医師の言葉にほっとする。
「どうして、隠れたりなんかしたんですか?」
しゅんといつもの元気はどこへやら、うなだれたアルフレッドを前に菊は腰に手を当ててその姿を見下ろしていた。
平日の病院内は意外と人がいるものなのだなと関係ないことを思う。
アーサーの話では、パソコン前の座椅子で遊んでいたアルフレッドがバランスを崩し倒れた椅子とともに床に顔を打ち付けたらしいのだ。
目を回したのか、一瞬動かなくなったアルフレッドにびっくりしたアーサーが一階に菊を呼びにきた間に気が付いたアルフレッドが菊に見つかるまいとして隣室へ隠れたというのがことの真相らしい。
「私もアーサーも、心配したんですよ?」
口をへの字に結んだアルフレッドに向けて、問いかける。
「アル?」
口調をゆるめれば、こちらを探るようにアルフレッドの視線が上目を向く。そして、幾ばくかの逡巡の後堅く結ばれていた小さな唇がわずかながら開いた。
「・・・おもった、から」
「・・・・え?」
青い瞳に水滴をため、小さな子供はこらえるように繰り返す。
「おこられると・・・・・・・おもったから」
それは、子供にとって見れば至極単純な理由。
「あー・・・・・なるほど・・」
危ないことをした自覚はあったらしい。危ないこと、してはいけないことをしたから怒られる。怒られたくないから隠れる。実に、シンプルな思考だ。
顔面を強打して痛いし、血だってたくさん出てびっくりしただろうに、それよりも怒られる方が怖いのか。あの状況でその理由のためだけに逃げ隠れることができるのも根性といえるだろう。感心すらしてしまう。
叱るでなく、思わずそれに納得してしまった菊の背後から別の声が聞こえた。
「なるほど。じゃないっての」
「ファニーっ!」
菊の背後にいつの間にか現れていた呆れたような顔をしたフランシス姿を認め、アルフレッドが絶望的な表情がこちらを見上げる。
言わないでっていったのにと、その顔には書いてあるが・・・。そんな裏切り者みたいな顔されたって、しょうがないじゃないですか。
「いえ、だってお預かりしている子供に何かあったのですから保護者に連絡をするのは当然ですよ」
しれっとそう言えば、キクのばかーっ!と甲高い声でなじられた。
失敬な。
もちろんその後、こんこんとアルフレッドがフランシスに説教されたのは言うまでもない。
ジュースが飲みたいと騒ぐアルフレッドをアーサーと共に小銭を握らせて自販機に向かわせる。駆けていく2人の後姿に、廊下は走らない!と声をかけ、少し速度の遅くなった2つの背中が角を曲がるまで見送った。
「んじゃあ、俺は今夜は念のためアルフレッドと病院に泊まるから。悪いけど、アーサーのことよろしくな」
「はい」
子供のいなくなった病院の廊下に、2人たたずむ。時間も遅くなったからか、人気もだいぶ少なくなってきた。
静かな時間が流れる。
病院は、嫌いだ。
きっとそれは、フランシスも同じだろう。2人とも、決していい思い出などない。病院というのは得てしてそういうものであろうが、幾年かの月日を経てもまだ記憶というものは鮮明だ。
あの時は・・・そう。場所は違ったが、こんな感じの病院の廊下にある長いすにうつむいて座っていたフランシスのうなだれた後頭部を、ただじっと見つめているだけしかできなかった。今思い出しても、やりきれないふがいなさでいっぱいになる痛ましい記憶。
けれど、そんな感傷に浸っている場合ではない。自分には、彼に対して言わなければいけないことがあるのだから。
「フランシスさん」
「なに?」
どこか遠くを見ていたフランシスの視線が、菊に向く。
「・・・すみませんでした」
「ん?」
「アルフレッドに、怪我をさせてしまいました」
ぱちぱちと長い金のまつげが縁取る瞳をまたたかせたフランシスに向かって、深々と頭を下げる。
んーっ、とフランシスは困ったような声を漏らすと、金色の長い髪をかき上げた。
「逆に助かっちゃったって、考えないの?」
「え・・?」
顔を上げれば、苦笑したフランシスの顔。
「菊がいなかったら、こうなったときにあいつらだけじゃ対処できなかったわけだし。そしたら、近くに菊がいてよかったじゃない」
伸びてきた手が、菊の頭をぽんぽんと宥めるように優しく叩く。
「助かったよ。・・・ありがとう」
胸の中が、どうしようもできない感情でいっぱいになる。嬉しいような苦しいような泣きたいような。そんな激しい感情を覚えるのは久しぶりで、菊はあふれ出しそうな物をこらえるために顔を歪ませる。
そんな菊の様子に何も言うことなく、にっこりと笑ったままのフランシスに、菊は心の底からもう一度深々と頭を下げた。
これなら入院する必要などないのではないかというくらい元気いっぱいに帰ってきたアルフレッドを迎え、入院の事実を告げたらもう一度盛大に泣かれた。
ついでに、フランシスが付き添う旨を追加するとキクが良いと駄々をこねられたがそれも何とか宥めてアーサーと共に帰路に就く。
明日迎えに行くという約束をしたから、朝一で病院に行かなければいけないだろう。どのみち、明日も仕事があるフランシスと交代しなければいけない。
空は日が落ちかけて半分以上を暗い藍色が覆っている。あとは、水平線上の赤い夕焼けをわずかに残すくらいだ。
夜の闇が浸食する部分には、数個ではあるがきらりと光る星も見えはじめていた。
地平線に近い場所に一際輝いている星は金星だろうか。
自分の手の半分ほどの大きさしかないアーサーの手を握りながら、ゆっくり家までの道のりを歩く。
どちらからとも言葉はない。もとからアーサーも自分も言葉が多い方ではないから。
つないだ手の柔らかさと熱が想像以上で、先ほどから少し戸惑いがとれない。
そういえば、アーサーと手をつなぐのはこれが初めてだ。アルフレッドはスキンシップが好きな方なので彼から抱きついてくることは珍しくないのだが。
やはり、このくらいの1歳さ差は大きいのだなと実感する。常々、やはり年上ぶる仕草の多いアーサーだがこうしてその手を握るとやはり小さいながらもアルフレッドの物に比べれば幾分かしっかりとしている。
アルフレッドも、来年になればこのくらい大きくなっているのだろうか。けれどもそうしたら、アーサーもまた大きくなっているのだろう。
そう思ったら、なんだか不思議になってきた。
ここ数年は、ただ一つの思いから抜け出せずにいた自分が足踏みをしている間にも彼らはこうやって成長してきたのだろうか。
「よかったですね、アルフレッドも平気そうで」
なにもしゃべらない子供に向かって、菊はぽつりと言葉をこぼす。
自分ですらあれほど驚いたのだから、この子供だって驚いただろう。
安心させるように向けた言葉に、しかしアーサーは表情を堅くしたまま繋いだ手にぎゅっと力を込めた。
「アーサー?」
なんだか彼らしくないしぐさのような気がして、その名を呼ぶ。
菊に引かれるままに動いていた足が止まった。
「どうしました?アーサー」
「・・・ち、が・・・」
うつむいたままの金色の髪が、夕焼けでほんのり染まっている。
明るいのに暗い、寂しい色だと思った。
「ち・・・が、いっぱい・・・でて・・あっ・・アルが・・・」
いつもと違う色をたたえた子供は、わずかに震えた声で呟いた。
「アルが・・・しんじゃうかと・・おもっ・・た」
その言葉に、菊は目を丸くする。
アクシデントが起こった時はアーサーもだいぶ動揺していたが、病院ではわがままを言うアルフレッドを叱咤したりしてすっかり元に戻っていたと思っていたのに。ずっと、時分の中で渦巻く恐怖を我慢をしていたのか。アルフレッドを、失うかもしれないという言いようもない喪失を。
「そうですね・・・怖かったですね」
立ち止まった体を抱き上げる。そういえば、こうしてだっこをするのも初めてだ。そうか、アーサーはずっと自分の前ですら兄であったのか。
「大丈夫ですよ。あんなに元気だったんですから」
抱き上げられたことに驚いたのか、びくりと震えた体はしかしおとなしく菊にもたれ掛かる。
小さい小さいと思っていたのに、その重量はずしりと腕にのし掛かってきた。これが、この子の重さ。
「今夜は、一緒に寝ましょうか」
しばらくたって肩口でこくりと頷かれた感触に、ほっとする。
家までの道を、急ぐでもなく歩いていく。腕に抱えた体は、歩を進める度に何度か抱え直さなければいけなかった。
「しんだら・・・ほしになるの?」
「・・・え?」
何度めかの抱え直しを終え、また歩きだそうとした菊の耳にか細いアーサーの声が届く。
「しんだら・・・ほしになるって・・・フランシスが・・・」
何故いきなりそんなことをと思って、あぁ、そういえばこの子の両親はもういないのだったと思い出す。
「星に・・・は、ならないかもしれないですけど・・」
確かに、よく言う言葉だ。けれども、死んだ人間がすべて星になるのであればきっとこの夜空はきらめく星でいっぱいになってしまうだろう。そう思う自分は、ずいぶんと現実的だ。そう分かっているのに、アーサーと話しているとそれもいいかもと思えてしまう自分がいた。
「もしなれたら、いいですね」
「なんで?」
かすれるような声が言葉を紡ぐ。
「だって、星になれたら誰か一人には、きれいだって言ってもらえるじゃないですか」
たとえそれが、たくさんの中の一つであっても。金星のように夜空に輝く一番星ではなく、天の川の大量の星屑の一つであったとしても。ああいう、きれいな物の一つになれてそして誰かにきれいだと言ってもらえたら。それだけで十分な気がした。
「星に、なってみたいですね」
ぎゅっと、体に捕まった手の力が強くなる。
「アーサー?」
おや?と思って問いかけても、返事はなかった。
寝てしまったわけではないだろうが、どうしたのだろう。もしかしたら、両親のことでも思い出してしまったのだろうか。
そうだ。この子の両親も、彼女も、本当に星になっていたらよかったのに。そうしたら、夜空を見上げればきっと彼らに会える。
この子も、フランシスも今よりもきっと寂しくないだろうに。
少しずり落ちた体を、またよいしょと抱え直す。
家までは後少しだ。そうしたら、この重みを手放すことになるのだと思うとなんだか少し寂しいような心地になる。
変な感じだ、と菊は思う。
暮色の橙と紫がかった空のグラデーションや濃紺の夜空にまたたく星の美しさよりも、小さな体の温かさは菊の渇いた心の中にパチパチと輝く光をともした。
それは、ずいぶんと忘れていた心のかけらがはじける音なのかもしれない。
まだ、はっきりとはしないその音を、菊は他人事のように感じていた。
腕の中の子供が言葉に出さなかった痛みなど、知ることなく。