「じゃあ、私は洗濯物を干してきますから。いい子にしていてくださいね」  

 片手には、めいっぱい濡れた衣類の入った洗濯籠。空いた手で2人の小さな頭を交互になでる。  

 わかった!と、太陽のような笑顔でこちらを見上げた弟と、相変わらずふてくされたような顔で頷いた兄を部屋の中に残し、庭へと足を進めた。  

 空は雲一つない、いい天気だ。  

 これならば、今日も洗濯物はすぐ乾くだろう。夏は熱くて好きではないが、こういうところだけは便利だということに今更ながら気づいた。一人暮らしの時は、洗濯物がいつ乾こうが気にもとめなかった。それこそ、乾かなければ2日だろうが3日だろうが干していようとも誰も気には止めないのだから。  

 けれど、今はそうはいかない。  

 パンっ、と白い小さなシャツをはたく。この大きさは、きっとアルフレッドの方だろう。  

 少し前まで一人分だった洗濯物は今や4人分に増え、1週間に2回程度だった洗濯も1日1回に変わった。  

 面倒だが、こうでも強制されなければ自分は日がな一日中家の中に閉じこもっていただろう。  

 自分ではそれはそれで悪くない日常の過ごし方だと思うのだが、それを知られれば飛んできそうな友人は数人、即座に頭に思い浮かべることができる。  

 心配性の彼らの為には、自分はこういう生活の方がいいのかもしれない。  

 正直に言って、まだこの生活に慣れたわけではなかった。  

 一日の大半を、誰か他人と共に過ごす。  

 学生時代ですら、こんなに長い時間を他人にとられたことはなかった。親代わりの耀と暮らしていたときだって、もっと一人の時間はあったように思える。  

 仕事が忙しいらしいフランシスが夕飯の時間までに帰ってくるのはまれだ。時折、2人の子供たちはこちらの家で寝付くこともあった。  

 フランシスの忙しさを見ていると、よくこれで子供の面倒を見てこれたと思うがきっとそれほどまでに仕事を制限してきたのだろう。  

 彼の性格から、2人を放っておくとは思えない。  

 だとしたら、フランシスの今の忙しさはその付けなのだろうか。  

 洗濯物籠の中からでてきた、丈の長いコットンのスラックス。自分がはいたらきっと引きずってしまうだろう。あのころは、まさか自分が彼の洋服を洗濯することになるとは思わなかった。  

 そのことに、今更ながら何ともいえない心持ちがしてため息を付く。  

 鍵束には自分の鍵と、もう一つ隣家の鍵が増えた。  

 かといって、あの頃の苦い気持ちがよみがえるかと言えばそうでもない。  

 ぱんっ、とスラックスをはたいてしわを伸ばす。  

 彼の持ち物は比較的高価なものが多いのだが、そういったものはどうやら自分で管理しているらしい。スーツの手入れの仕方なんか分からないので、そうしてもらうしかないというところなのだが。昔、スーツを洗濯機にかけたところを見られて酷く怒られたものだ。  

 しわの伸びたそれをハンガーに掛け、物干しにかける。  

 空が広がっている。青い。雲一つない空。  

 昔もどこかで、こんな空を見たことがある気がした。  

 こんな、切り取られたものではなくどこまでも遠い視界に入りきらない程一面の青。  

 あれはどこで・・・  

 「わっ!」  

 どんっ、と腰のあたりを後ろから強い衝撃を受けて菊は、思わずたたらを踏んだ。あやうくせっかく干した洗濯物を倒しそうになりながらも踏みとどまる。  

 何かが、ぶつかってきたような・・・  

 「・・・アーサー?」  

 振り向けば、足下に小さな固まりがひっついている。  

 「どうしたんですか?」  

 問いかけに答えはなく、ぐいっと服を引かれた。  

 「・・・えっ?」  

 自分の服の裾を引っ張る強い力に、思わず足下がふらつく。子供をつぶさないようにバランスをとろうと四苦八苦する菊を余所に、アーサーの力は止まらない。  

 「アーサー!?ちょっ、どうし・・・」  

 「あ・・・るが・・・」  

 きつく引き結ばれていた口から漏れたのは、かすかに震えた幼い声。  

 「アルがっ!!」  

 そして次に聞こえた、今まで聞いたこともないほど大きな悲鳴に近いそれに、異常な事態が起こったことだけは理解できた。  

 慌ててつっかけを脱ぎ捨て部屋の中へと駆けあがる。  

 そんな菊を先導するように、小さな体は思わぬスピードで2階へと駆けあがっていく。見失わないようにするのが精一杯なその後ろ姿を追いかけて菊も2階への階段を駆けあがった。  

 「アルっ!」  

 飛び込んだのは、2階の角部屋。以前、菊が仕事場として使用していた部屋だった。  

 あるのは座り心地のいい座椅子と、カバーの掛かったデスクトップのパソコン。それから、比較的大きい本棚と小さなサイドテーブルだけだ。  

 本は崩れるから近づかないように言っていたが、まさか・・・  

 最悪の事態を想像し、アーサーが飛び込んだ後に菊も続く。  

 久しぶりに立ち入ったその部屋は、以前とほとんど変わらない状態を保っていた。  

 心配していた本棚が崩れている様子もない。そのことに、少しだけほっとする。けれど、まだ安心する事はできなかった。おそらくそこにいたのであろうアルフレッドの姿が見あたらない。  

 「アル?」  

 先に部屋に飛び込んだアーサーも慌てているようだった。きょろきょろと部屋の中を見わたし、そこに弟の姿がないことを見て取ると菊の足の横を駆け抜け部屋を出ていく。  

 何が起こっているのか分からず、菊は困惑するばかりだ。  

 アーサーが駆け込んだ部屋に異変はない。せいぜい、パソコンの前の座椅子が倒れているくらいで・・・  

 「・・・え?」  

 その座椅子の横。視線の先にあった、赤い跡に視線がすい寄せられる。  

 赤い・・・血痕!?  

 「・・・っ!アルフレッド!」  

 小さな姿を探すために、菊も部屋を飛び出す。  

 「アルっ!でてこいっ!アルっ!」  

 先に飛び出していたアーサーの声が隣室から聞こえた。それに向かって足を進める。  

 隣は、物置になっていたはずだ。それほど物があるわけではないが、大きく邪魔な物を適当につみ上げている場所だった。  

 「アルフレッド?」  

 アーサーの声に呼ばれるように、部屋の中へと入れば衣装ケースの積まれた一角に向かって声をかけている。何を・・・と、衣装ケースと壁の隙間をのぞき込めばうっすらと暗がりになっているそこに金色の小さな影が見えた。  

 「アルフ・・・・」  

 必死に説得を試みようとしてアーサーの上からアルフレッドの様子を確認しようと目を細め、姿を目視した途端その惨状に絶句した。  

 触れるとなめらかで柔らかい頬。幼い頃特有のすこしふっくらとした下頬が、真っ赤に染まっていたのだ。正確に言えば、小さな鼻の下が、だろう。  

 「なっ・・・どうしたんですか!?ちょっ・・・」  

 「なんでもないっ!」  

 明らかに非常事態なのにも関わらず、アルフレッドは頑なだ。  

 「何でもないわけないでしょうっ!?」  

 「アルっ!」  

 「なんでもないもん!いーからキクもアーティもあっちいって!」  

 顔中真っ赤にしても出てくることを嫌がるアルフレッドに、菊は思わず切れた。  

 「いいから来なさいっ!!」  

 アーサーを押し退け隙間に手をさし込む。自分でも驚くほどの力で、細い隙間からアルフレッドを引きずり出した。  

 「やぁーっ!!ぎゃぁ−っ!!」  

 騒音といえるほどの音量で泣き叫ぶアルフレッドの体を抱えて階下へと降りる。  

 「やだぁあーっ!!」  

 「やだじゃありませんっ!!!病院行きますよ!」  

 「ギャーッ!!」  

 何がそんなに嫌なのか、アルフレッドの抵抗は止まらない。  

 ご近所様に聞こえたら、いったい何やってるんだろうと思われるんだろうな。あぁ、変質者だとか通報されないといいけど。  

 「いいかげんにしなさいっ!」  

 ぐっと、涙声を飲み込んだ音がする。どうやら、なんとか効いたらしい。騒がしい声が聞こえなかったことにほっとする。けれども、肩口に押しつけられたアルフレッドの瞳から流れる涙は菊の服を濡らし続けていた。  

 「ファニーに・・・」  

 べそべそと泣き続けながらも、もう叫ぶことはない。  

 「ファニーには、いわなでぇー・・・」  

 小さくつぶやいたその言葉に、菊はこっそりとけれど重いため息を付いた。