電話を終えて振り向いたそこに、アーサーの姿はない。
けれども、菊にはアーサーがどこにいるのか。確信があった。
居間を出て、階段を上る。
階段を上ったすぐ手前にあるドアの前。そこに、案の定アーサーはいた。
「アーサー」
そこは、先ほどアルフレッドが蹲っていた部屋の扉だ。
「通してもらっても、いいですか?」
静かに声をかければ、うつむいていた顔が上がる。
「アルフレッドに、謝りたいんです」
こちらの心を審議するように覗き込まれる瞳。先ほどまでざわめいていた心は、それを受け止めても嘘のように静かだった。
小さな体が立ち上がる。
「ありがとうございます」
開いた道筋に、菊は心から感謝した。
扉に手をかける。数刻前にも、一度開いた扉だ。
その時は、何も言えずに逃げ出してしまったのだけれども。
「アルフレッド」
丸まった背中に声をかける。ぴくりと、その背中が揺れた。
少しだけ距離を取って、アルフレッドの近くでひざを突く。近づけば、その肩が小刻みに揺れているのが見て取れた。
「ごめんなさい」
自分は決して、誇れる人間ではない。
立派な大人ではない。
だからせめて、それが自分にとってどんな痛みになろうともしっかり向き合わなければいけないのだ。それが、今の自分に課せられた唯一の役目。
「何か、私はアルフレッドを傷つけるようなことを言ってしまったんですね?」
彼のために、心配かけないようになんていいながら、結局のところ自分は面倒なことから逃げていた。
育てるだなんて大層なことを考えるよりも先に、まずは彼らと向き合わなければならなかったのに。
「けれど、どうしてアルフレッドが怒ったのか今も、分からないんです」
僅かな距離なのに、それが遠い。そう感じることが辛い。久しぶりに感覚は、菊を戸惑わせたけれどもあの暖かさを失うくらいならばこのくらいの辛さには耐えなければいけないのだ。
「分からないのですけれど・・・アルフレッドに、嫌われたままなのは、嫌なんです」
くるりとこちらを向いた青い瞳。もう涙は流れていなかったけれどもひどく擦ったのか、目の下は赤く染まっていて痛々しい。
「アリーはキクがスキだっ!」
変わらないまっすぐな視線。
「キクはきれいだからスキっ!スキだから、キクはアリーがまもるからっ!まもるって、きめたのにっ!」
その言葉に、菊は思わず目を見開く。
そんなことを考えてくれているなんて、思わなかった。
守る、だなんて。彼らはまだ無償の愛で守られていて当然の存在だと菊は思うのに、それなのに彼はこんな自分を守るという。
「まもっ・・るのに・・・キクがなんでもないって、いう・・からっ」
折角止まっていた涙が、また溢れ出す。
それを、子供の戯言だとは思えなかった。きっと、アルフレッドは本気で菊を守ろうとしていた。
だから、難しい顔をしている菊を本気で心配してあんなに一生懸命になっていたというのに。
「それが、アルフレッドを傷つけたんですね。ごめんなさい」
自分は、その場しのぎの言葉で彼をあしらった。嘘をついたそれを、この子供は簡単に見抜いたのだろう。
「ありがとう」
真っ赤な目になるまで泣かせて、そうなるまで気が付かないどうしようもない自分を見捨てないでいてくれて。
「アルフレッド、心配してくれてありがとう」
小さな塊が、腕の中に飛び込んできた。
ぎゅっと抱きしめたら壊れてしまいそうで、でも腕の中の存在が愛しくて菊はその背中を何度も優しくなでる。
「まだ、好きでいてくれますか?」
こんな自分でも。
そう問えば、胸に押し付けられた頭がこくこくと激しく縦に振られた。
「アーサー」
そして、もう一人。
「あなたにも、心配かけましたね」
ふがいない自分を、じっと側で見守ってくれていた、もう一人の愛しい存在へ。
「ありがとう」
言葉でしか伝えられない自分がもどかしい。
けれど、今の自分にはそれ以外の方法しか思い浮かばなくて。
「・・・・ごめんなさい」
だから、アーサーの口から出てきた応えは菊にとってはまさに不意打ちのようなものだった。
「アーサー?」
「ひどいこと・・・いって、ごめんなさい」
予想外の言葉が、菊の胸に突き刺さる。
きっと、この子供はアルフレッドを心配していただけではないのだろう。
いろいろなことを考えて、そして、自分の言った言葉に自分で傷ついて。
彼はただ、その小さな体で彼の大切な弟を守ろうとしていただけなのに。彼が悪いわけではない。悪いのはこちらなのに、その言葉をずっと気に病んで。
あぁ、自分の周りはなんて優しい人たちで溢れているのだろう。
ぽんと、柔らかい髪の上に手を載せる。
「私のほうこそ、ごめんなさい」
自分から抱きしめる、なんてことはやっぱりまだ出来ない。
だから、こうして手のひらの温もりを伝えるのが精一杯だけれども。少しでも、気持ちが伝わればいいと思った。
俯いた金色の髪に隠れた頬が、僅かに染まっている。
嫌われてはいないらしい。それは、菊に思った以上の安堵をもたらした。
が、兄の気持ちを慮らないのはどこの世界の弟も一緒らしい。
「アーティ!キクをいじめたのか!?」
自分の胸元からばっと上がった顔から発せられた言葉を、一瞬菊は理解できなかった。
「えっ?」
違う、という間もない。
「うるさいっ!だいたい、おまえがないてるからわるいんだろっ!」
反射のようなスピードで返されたアーサーの声に、言葉を割り込ませる隙もなくて。
「ないてない!」
「ないた!」
「ないてない!」
「ないた!」
「ウソツキ!アーティのうそつきっ!」
「ウソツキはおまえだろっ!」
突如始まった不毛な言い合いは、止まる気配がない。
あぁ、もう。本当に。
しょうがない。そう思いつつも、いつもの調子に戻ってくれたことが嬉しくて仕方がない自分がいる。
落ち込んでいるよりも、喧嘩してでも元気でいてくれたほうが何倍も暖かい気持ちでいられるから。
けれど、今はいつまでもこのままでいるわけにもいかないだろう。
だって、時間はもう夕方。
階下には、放置したままのハンバーグのタネが出番を忘れられて台所に鎮座しているのだから。
「2人とも」
取っ組み合いの喧嘩にまで発展しそうな2人に声をかければ、揃ったように上気した顔がこちらを向いた。
「今日のご飯はハンバーグです。仲直りの印に、手伝ってくれますか?」
「ハンバーグっ!」
「!!」
喧嘩していたはずの2人の顔に、喜色が浮かぶ。
「てつだう!」
吊り上げていた目元に笑みを浮かべて、アルフレッドの手が大きく上がった。
「では、お願いします」
そう言えば、小さな体が鉄砲玉のような勢いで部屋を飛び出す。開け放たれた扉の向こうから、転げ落ちるのが心配になるような足音が階下へと降りていくのが聞こえた。
それを苦笑と共に見送りながら、菊は視線を隣に立つもう一人へと移す。
「アーサー」
翠の瞳が、ためらいがちにこちらを見上げてくる。
「アルフレッドと仲直りできたのは、あなたのおかげです」
この子供が、自分に素直な感情をぶつけてこなかったら、自分はアルフレッドとのいざこざを流してしまっていただろう。
時が解決することを願って。もしくは、あれほど自分を慕ってくれていた彼が自分の下を離れたとしても、それを仕方がないと諦めていたかもしれない。
「ありがとう」
しっかりと目線を合わせる。
彼の心に、嘘をつかないように。
一瞬繋がった視線は、すぐ彼からそらされてしまったけれども決して悪い気持ちはしなかった。
素直ではない彼の、それはきっと照れ隠しの仕草。
「ありがとう。アーサー」
心から繰り返せば、小さな金色の髪がそれに応えるようにこくんと頷いた。
「おいしいねっ!」
「よかったですね」
口の端に付いた食べかすをぬぐいながら、菊はほんのり笑みを浮かべる。
にこにこ顔のアルフレッドともくもくと食べるアーサーを見ている限り、今日のハンバーグは成功したようだ。
それに安堵し、菊も自分の夕飯に手をつけた。
こんがり焼けたハンバーグと付け合せのキャベツの千切りにはオーロラソースをかけて。その横には甘く煮詰めたオニオンスープが、食卓に並んでいる。
この2人と一緒なら、食事も比較的喉を通りやすい。
人と食事をすることの重要性。彼らはそんな当たり前のことまで、思い出させてくれる。
本当に、色んなものをもらってばかりだ。
長く、こんな時が続けばいいのに。
「キクのごはんはおいしい!キクはいいおよめさんになれるなっ!」
そんな言葉をどこで覚えてきたのか。けれど微笑ましくて、ありがとうございます。と笑みを深めた。
「キク!」
ハンバーグを頬張りながら、自分の名を呼ぶアルフレッドに菊は顔を上げる。
「はい?」
「アリーがおおきくなったら、およめさんにしてあげるね!」
「・・・・・え?」
アリーがキクをまもるっていう約束!
満面の笑みが、こちらを見上げている。
・・・あぁ、兄さん。
こういう時は、どう答えたらいいんでしょうね。
「え・・・・っと」
同意してもらいたいらしい子供の視線が痛い。
素直な子供たちに対し、ごまかすことはしないと決めたばかりでこの難題!
本当に・・・・子供を育てるって難しい。
「えー・・・っとぉ・・・・」
菊の子育ては、今まだ初めの一歩を踏み出したばかりである。
ちなみに数秒後、そのアルフレッドの発言のせいで盛大な兄弟喧嘩が始まることをまだ菊は知らない。