悩み事に対して、逃げるのは昔からだ。

 それに立ち向かう勇気もなく背を向ける。それが、菊なりの自分自身の守り方だった。卑怯だと思っても、この年まで改めることができないのだから不甲斐ない。

 キャベツを切りながら、はぁっと菊は重いため息をついた。

 今日のメニューはハンバーグにする予定だった。小さめのハンバーグが3つ。  

 タネは作ってあるから、後は焼くだけだ。  

 キャベツの千切りが終わったら、焼きにかからなければ。けれど・・・  

 食べて・・くれるでしょうか。  

 結局、あの後アルフレッドと話はしていない。  

 声をかけようとはしたのだけれど、二階の角部屋の隅でまるまってこちらに背を向けている姿を見ても、やはり言葉がでることはなかった。  

 泣いていたのだろうか。  

 本当ならば、抱きしめて慰めてあげなければいけないのかもしれないのにその姿を見た途端足がすくんで動かなくなった。

 どうして自分には、そんな単純なこともできないのだろう。  

 本当に、自分にはもうなにもないのだと改めて突きつけられた気がした。  

 なにも。  

 「キク」  

 背後からかけられた声に、手元が狂う。ざくっと、キャベツが不揃いな切れ端を増やした。  

 「あ・・・アーサー・・」  

 ぎくりとして振り返れば、そこにはこちらをじっと見つめる緑色の瞳。  

 予定よりも太く刻まれたキャベツを横によけ、包丁を置く。  

 「どうしたんですか?」  

 内心の動揺を隠し、しゃがみこんで膝をつけば想像以上に緑色の瞳がまっすぐ自分を貫いて、思わず顔の位置を近づけたことを後悔した。  

 今は、その瞳が自分を写すのが辛く重く感じてしまって。  

 「でんわ」  

 居間の片隅においてある電話が、チカチカと点滅を繰り返している。  

 耀からかかってくるであろう電話を無視するために音は切ってあったが、着信を知らせるランプは先ほどから時折点滅を続けている。  

 「あれは・・・」  

 出なくていいんです。なんて、何故か言えなかった。  

 家族といえる相手からの電話を無視している自分が子供のように思えて、それを認めたくなかったからかもしれない。 言いよどむ菊を、緑色の澄んだ目が見つめる。思わず菊は、それから目を逸らしていた。

 そして、小さな口が再度言葉をつむぐ。  

 「アルが・・」  

 その名前に、ひゅっと息が詰まった。  

 「アルがないてた」  

 ずきりと、心が痛む。やっぱり、泣かせてしまった。ふがいない自分のせいで、あの暖かな存在を悲しませた。

 小さな存在相手に弁解する余地もなく、言葉を詰まらせ黙り込む。けれども、そんな菊をアーサーは逃がしてくれない。

 瞳に揺るがない決心を宿らせ子供は言葉を続ける。  

 「アルをなかせるやつは、オレがゆるさないからな」  

 言葉に詰まった。  

 子供の瞳はあまりにまっすぐで、自分には強すぎて。  

 弁解でも、謝罪でも、何かを口にしなければいけないはずなのに。  

 「電話・・・でてきますね」  

 電話は、未だに点滅を繰り返している。  

 それに向かっていく口実で、菊はアーサーに背を向けた。  

 最低な人間だ。  

 逃げる・・・逃げているのだ。アルフレッドからも、兄からも。  

 そして今は、アーサーが追求してこないのをいいことに彼からでさえも。  

 「・・・・・はい」  

 『なんで切ったあるか!その後電話にもでないし、おにーちゃんは心配したあるよっ!』  

 逃げたのに、辛いことがあると今度は逃げ場にして。  

 自分はなんて身勝手なのだろう。  

 黙り込んで返事のしない菊に、耀の声のトーンが変わる。  

 『・・・菊?』  

 心配したような声にも、返事ができない。  

 優しい彼と比べ、自分の矮小さが浮き彫りにされたような気がして。  

 『ほっ、本気で怒ってないあるよ?』  

 どうしたあるか?大丈夫か?何度も言葉を重ねて繰り返される気遣いの心。  

 誰かに、何かを思うということ。  

 心を思うということ。  

 「・・・耀さん」  

 『何あるか?』  

 彼は優しい。人としても、一人の男としても尊敬できる存在だ。  

 そんな彼だからこそ、男であっても自分を育てられたのではないだろうか。  

 幼い頃の自分の中には、彼の優しい思い出しかない。  

 どうすれば、あんなきれいな思い出を彼らにも与えてあげられるのだろうか。伝えてあげたいと思うのに、そのやり方が分からなくて。  

 「耀さんはどうやって、私を育ててくれたんですか?」  

 突然の質問に、耀は菊を追求することはなかった。うーんと、しばらく考えているような沈黙が続く。   

 そして返ってきたのは、想像以上にあっさりとした声だった。  

 『何にもしてないある』  

 「え?」  

 『ご飯作って、お風呂入れて、寝かせて、本読んでくれってせがむから何度も本読んで、また起きたらご飯作ってしてただけある』  

 そしたら、菊は大きくなったあるよ。  

 ご飯を作って、寝かせてくれて、本を読んでくれて。  

 自分が幼かった頃、確かにそれは彼から与えられた記憶だ。  

 彼の作ってくれたご飯はおいしかった。好きだと言えば、また作ってくれたし、嫌いなものも色々工夫して食べられるようにしてくれた。  

 昔から本が好きで、でもまだ字が読めなかったから、彼にせがんだ。  

 夜寝る前、彼の手が空いているときを見計らって。  

 同じものを何度も何度も読んでもらった時期もあった。  

 自分は楽しかったけれども、あのころからもう大人だった彼にしてみれば、きっと飽きるほどだっただろうに。根気よくつきあってくれて。  

 眠れない夜は、そばについていてくれた。  

 兄がそばにいれば、怖い話を聞いた後でも、嵐の夜でも安心して眠ることができた。  

 「でも・・・それだけじゃなくて・・・もっと・・」  

 自分が健やかでいるように、彼がどれほど心を配っていてくれたか知っている。知らずにはいられないほど、彼の心は隠しようがないほど伝わってくるものだった。

 どうすれば、そんなふうにできるのだろう。どうすれば、彼のように2人に接することができるのか答えを知りたくて、なおも菊はせがむ。それに返ってきたのは、穏やかな耀の声だった。  

 『菊は、その子供が幸せに育って欲しいと思っているあるか?』  

 「・・・え?」  

 予想外の返しに、菊は言葉を詰まらせる。彼らを、幸せに?  

 「あ・・・はい。・・・・・・・多分」  

 『多分?』  

 幸せに・・・・。そんな大それたこと考えたことなかった。あのぬくもりの恩返しに、少しでも、彼らが心穏やかに過ごせればいいとは思ってはいたけれども。  

 それは・・・そうだ。  

 それを人は、幸せと呼ぶのか。ならば・・・  

 「・・・いえ。幸せになって、欲しいです」  

 『じゃあ、大丈夫ある』  

 受話器越し、耀の花のような笑みが見えた気がした。

 『子供なんてもんは、ちゃんと愛してやれば勝手に育つある』  

 自分を見るときの、自分といることが幸せだと彼のすべてでこちらに伝えてくれる笑顔が。  

 『我も、菊が誰よりも幸せに大きくなってくれればいいと思っていただけある。そうやって、ご飯作ってただけある』  

 特別なことは何もしていない。  

 『そしたら、お前は勝手に大きくなったあるよ』  

 そんでおにーちゃんの元を離れていったある。もう少し、育ての兄をたいせつにするよろし。  

 ぶつぶつと自分に向かって不平を言っている言葉が、何故かいつもよりも暖かく感じる。  

 「私にも、できますか?」  

 何もかも失ったと思っていた自分が。きっと何も、教えることはないのだろうけれども。それでも。  

 「こんな私でも、いいんでしょうか」  

 子供たちから与えられた温もりの一部でも、兄から与えられた愛情のひとかけらでも、彼らに返すことができる日が来るのだろうか。  

 不安はある。自信なんかどこにもない。  

 なのに、この血の繋がらない兄は一つも疑ってなどいない声でこう言うのだ。  

 『菊はおにーちゃんが育てた自慢の弟ある。菊に育てられたんなら、菊が何もしなくても立派に育つあるよ』  

 言葉に詰まった。  

 自分はもしかして、自分が思っていた以上の愛情でこの兄に支えられていたのかもしれない。  

 ツンと、鼻の奥で覚えのある痛みが走る。  

 こらえきれないものがこみ上げてきそうで、菊はきゅっと唇を噛みしめた。  

 感謝はもとからもちろんしていた。自分が物心つく以前から育ててくれて、今も見守っていてくれて。  

 わかっていたと思っていた。なのに、子供の頃のようにすがって喚くように泣いてしまいたいと思う時がくるなんて、いったいどうして想像できただろうか。  

 「耀さん・・・」  

 じんわり滲んだ涙を堪え、ありがとうございますと、気恥ずかしくてついぞ口にしたことのない言葉を紡ごうとした。  

 のに。  

 『で、父親はだれあるか!』  

 がっちゃーん!  

 ・・・・しまった。  

 反射でまた切ってしまった。  

 本気なのか、こちらを和ませるための冗談なのかわからないけれども。それでも、ずいぶんと気が楽になった自分に気づく。  

 「ありがとうございます。耀さん」  

 どういたしまして、と。聞こえるはずのない声が聞こえた気がした。  

 思わず口元がほころぶ。

 けれども、問題は何も解決していない。後は、自分自身が解決しなければいけない。

 逃げるのでなく、後回しにするのでもなく。  

 自信は今もないけど、たとえどんな自分であっても正面から向き合わなければ。  

 あの、まっすぐな視線から逃げることなく。  

 

 それが今の自分に出来る精一杯だと、菊はようやく面を上げた。