育児書を買うのは恥ずかしい。子育て実体験のブログをさまよっても、何となくしか理解できずに終わってしまう。言わずもがな、会ったこともない他人にいきなり質問なんて以ての外だ。  

 それでも、一旦引き受けてしまったからには中途半端にすませることなど菊の性格上できるわけがなかった。  

 何事も、まずは学習からである。  

 本来母親になる人間は、その存在が腹の中にいるときから彼らへの接し方を学んでいるのだから、その期間はゆうに10ヶ月近い。  

 けれども、こちらは先日いきなり心の準備も何もなく顔合わせをさせられたばかりであり、しかも子供などというものには一切と言っていいほど関わってこない人生を送ってきた成人男子である。  

 子育ての心得も、意気込みもあるはずがない。  

 なのにも関わらず、菊の日常には小さな金色の固まりが二つ。言葉を話し多少は意志の疎通ができるとはいえ、それでもまだ相手は未知の生物レベルである。  

 とりあえずこの数日は、お菓子を与えてみたり食事を与えてみたり、勝手に遊ぶ様子を観察していたりしてなんとか過ごしてきてはみたもののこれではいけない気がするというのが最近の菊の悩みの種だった。  

 人様の子供を預かっているのだから、何かあってからでは遅いのだ。  

 小さな手のひらに絆されたとはいえ、うなずいてしまった自分を悔いても過去は戻らない。・・・出来るならば、こんな大役を引き受けてしまった自分を過去に戻ってやり直ししたいけれども。  

 よし。と、自分自身に気合を入れる。  

 目の前には、最近頓に出番のなかった自宅電話。  

 長い間向き合っていた電話機にようやく手を伸ばす。電話機と見詰め合っているだけでは何も始まらない。  

 相手の番号は、短縮に入れなくてもいいくらい記憶に入っている。  

 よし。ともう一度覚悟をきめ、菊は受話器を取り上げた。  

 コール音が3回。  

 『はい』  

 「・・・もしもし」  

 久しぶりに聞く相手の声。  

 ここ数ヶ月外界への接触をたっていたから、受話器越しに聞こえるその声を聞いて、自分から誰かに電話をかけるなんてどれくらいぶりだろうとふと気がついた。  

 「ご無沙汰してます。菊です」  

 『菊!?どーしたあるかっ!』  

 王耀。血のつながり自体はないが、幼い頃両親に変わり自分の面倒を見てくれた兄のような存在だ。  

 彼から自立した際に離れて暮らすようになったが、両親から自分の世話を任された責任感からなのか度を超すほどの心配性は増すばかりで正直菊にとってはあまり連絡を取りたくない相手でもある。  

 嫌いなわけではないが、少々干渉が菊のキャパシティを大幅に越えてしまうので。  

 それでも、それを押してでも今回自分から彼に連絡を取ったのはほかでもない。  

 『珍しいあるね!菊から連絡をくれるのは。何か困ったことでもあったあるか?おにーちゃんに相談するある!』  

 (うわぁ・・・)  

 嬉々とした声音にやっぱり連絡するんじゃなかったと一瞬後悔が頭をよぎるが、それでも背に腹は代えられない。  

 「あの・・・ですね」  

 『うんうん』  

 あまり頼ることのない自分が、しかもこんな時期に電話をかけてきたのがよほど嬉しいのか相づちを打つ声さえも喜びにあふれている。  

 恥ずかしい。なんかもう色々恥ずかしいけれども、聞かなければ前に進めない。  

 だって、子供を育てた経験のある知人だなんて、彼以外いないのだから。  

 「子供の育て方について、アドバイスをもらいたいのですけれども・・・」  

 『・・・・子供?』  

 「あ、はい。だいたい・・・えっと・・・4、5歳くらいの・・・」  

 『菊っ!』  

 いつになく厳しい耀の声に、反射的に背筋が伸びる。  

 「はっ、はい」  

 なんだろう。怒られることなどした覚えはない。  

 それとも、こんな自分が子供の面倒を見るだなんてことが、反対なのだろうか。  

 ぐるぐる回るマイナス思考にどんよりと表情を重くしていた菊は、次に飛び込んできた言葉に一瞬の間思考を止めた。  

 『子供なんていつ産んだあるかーっ!!』  

 「・・・は?」  

 『にーには未婚の母なんか承知しないあるよ!父親は誰あるかーっ!』  

 「私は男です!」  

 がっしゃん!  

 「・・・・・あ」  

 ・・・・思わず電話を切ってしまった。  

 しまった、と思うものの後の祭りだ。

 どうせまた掛けなおしても、あの様子では意味の分からない彼の妄想につきあわされるのだろう。こちらを心配してくれるのは分かるのだけれども、あの行きすぎた想像はどうにかならないものだろうか。  

 自分の周りには、どうしてこうろくな人間がいないのだろうと思ったが、自分もその中の一人であることに気づいて落ち込んだ。  

 類は友を呼ぶのか、朱に交わって赤くなったのか。  

 それでも、まだ自覚があるだけ彼らよりはましだと言う思いがあるが、正直端から見ればどっこいどっこいである。もちろん、そのことに本人は気づいていないが。  

 きっと、しばらくすれば彼も落ち着いて自分の間違いに気づくはずだ。それまで電話はうっとうしいが、放って置くほうが無難だろう。  

 はぁ、とため息をつく。  

 眉間に寄ってしまった皴を揉み解すように、指を当ててぐりぐりと押すが悩みは解消されない。  

 そうしながら、同じように常に眉間にしわを寄せている友人の姿が思い浮かんだ。彼も同じような苦労をしているのだろうか。相手は、能天気ながらも成人男性ではあるが。  

 「キクっ!」  

 びくんっ!と身体がはねる。  

 甲高い、子供の大きな声は心臓に悪いと思いながら振り返れば、案の定そこにはこちらを見上げた青い目があった。  

 「キク!キクどうかしたのか!?」  

 いつから見ていたのだろう。  

 理由も分からずなついてくれるこの小さな子供が、必死な顔をして足元にまとわりついてくる。  

 「アル・・・」  

 やっかいなところを見られてしまった。しかめそうになる顔を必死で押し隠したつもりだが、表情の変わらない子供を見る分にはそれは失敗したと思ったほうがいいのだろう。  

 「アーティがイジメたのか!?」  

 「いえ、違いますよ」  

 ふるふると首を横に振る。  

 「ファニーにイジメられたんだな!」  

 「いえ、ちが・・・」  

 う。と言いかけて、思わず言葉を止めてしまった。悩んでいる元凶としては、フランシスであることは間違いなったので。  

 「アリーがこらしめてあげるっ!」  

 「あぁぁぁあああっ!違いますよ!大丈夫ですよっ!」  

 一瞬のためらいを敏感に察知さした子供が玄関へ向かおうとするのを、何とかその小さな肩を掴んでとめた。  

 さすがに、子供を使ってフランシスへ文句を言わせる気は菊にはない。  

 慌てた菊に、子供はきょとんとした顔を見せる。  

 「・・・じゃあ、なんで?」  

 何でも何も、可愛らしく首を傾げて聞かれたところで、答えられるはずもない。  

 あなたたちの教育の仕方を悩んでました、だなんて。  

 「えっ・・・と」  

 本当にどうすればいいのだろう。  

 ほら、やっぱりこんな時の対処の仕方一つすらまともにできないのに、この先いつまでかは分からないけれどもこの子たちの面倒をみていくなんて、そんな責任のあること自分にできるとは思えない。  

 やっぱり無理ですよ。  

 癖のようになってしまったため息が口からこぼれようとするのを、寸でのところで飲み込んだ。  

 正直、そんなこと聞かないで欲しい。聞かれたところで、答えられるものではないのだから。

 少しだけ、まとわり付いてくる存在を邪険に扱いたくなる。うっとうしい。どこかへ行って欲しい。けれどももちろん、そんなことを言えるわけがなかった。  

 アルフレッドに心配をかけないように、菊はその顔に笑みを浮かべる。  

 「大丈夫ですよ。何でもないです」  

 安心させるように、目の前の子供が胸を痛ませないように。なのに、小さな頬が止める間もなくみるみるうちに膨らんでいく。  

 そして、  

 「うそつき!」  

 青色の目にいっぱいの滴をため、小さな子供は菊の前から駆けだしていた。  

 「・・・泣かせてしまいました」  

 追いかけることもできず、菊はその後ろ姿を呆然と見送る。  

 追いかけて、慰めなければいけないことなど分かっている。けれども、追いかけて彼にどのような言葉をかけて慰めればいいのかが分からない。  

 ごめんなさい?泣かないで?  

 でも、それはきっと根本の解決にはならないのだろう。  

 だって自分には、彼が泣いた理由がひとつも分かっていないのだから。  

 ちゃんと、心配させないようにしたじゃないか。邪険にもしなかった。なのに、どうして彼は泣いたのだろう。分からないことだらけだ。  

 「・・・・私にはやっぱり無理ですよ。フランシスさん」  

 ぽつりと呟かれた言葉は、誰にも聞き取られず部屋の中へ消えていった。