そして残されたのは、立ち尽くす菊と2人の子供。  

 あぁ、もう・・・  

 「・・・まったく」  

 昔から振り回されてばっかりだったけれども、まさか今になって突然こんな風に振り回されるとは思っていなかった。  

 受けるだなんて、一言も言っていないのに・・・  

 はぁ、と重いため息がでる。  

 隣にいることはわかっているのだから駆け込んでもよかったが、どのみち彼は聞き入れてはくれないだろう。フランシスに対してのその行為が無駄な労力だと言うことを菊は理解していた。  

 どうせ、自分は決して彼には勝てないのだから。  

 昔から、そうだった。離れていた時期を間に挟んでも、どうやらまだそれは変わらないらしい。  

 ため息をつくことも諦め、思わず菊は苦笑していた。それでも、しょうがないと思ってしまうだなんて・・だから、あの人は憎めないのだろうけれども。  

 くいっと服の裾を引かれる。  

 はっとして下を向けば、懐古の情に引きずられそうになった菊の心を引き留めたのは、じっとこちらを見上げる2対の目。

 それらと視線が合い、慌てて菊は疲れた表情を引っ込めた。  

 「こんにちは」  

 彼らの目線の高さまで下げるために、その場にしゃがみ込む。  

 とりあえず今後のことはおいておくとしても、今日はこの2人の面倒はみていなければならないようだ。  

 「本田菊と言います。菊でいいですよ」  

 にっこりと笑ってみるものの、反応はない。あぁ、人見知りするタイプなのでしょうか。それか、作り笑いがばれてしまっているか。  

 子供は、そういうものに敏感だというから大人には通じるその手段も決して有効ではないのかも。  

 あぁぁ・・本当にどうしよう。  

 張り付いた笑顔の裏で考えるのは、そんな動揺だ。

 子供が嫌いだ、というとどこか冷たい人間だという印象を与える手前『得意ではない』という八ツ橋にくるんだ言い方をしてきたものの、正直菊は子供は苦手だった。

 意思の疎通が出来ないし、自由気ままにこちらの言うことなど聞きはしない。

 だから、小さい子供がいるような場所では付かず離れずくらいの距離を保ってやり過ごしてきたのだが、そんな相手とクッションを挟まないまま向き合わなければいけないだなんて。

 何の嫌がらせですかフランシスさん。迎えに来た暁には、やはり心を込めてくどくどとこの胸のうちを語りつくすしか解決の道はなさそうだ。

 私には無理です。と。  

 「・・・・キク?」  

 しかし、つらつらとそんなことを思考する聞くの耳に、小さな声が届いた。一瞬の後、それが自分の名前だと気付く。  

 あまりに聞きなれない声音だったので、聞き漏らしそうになる。  

 「えっ・・・あ、はい。そうです。菊です」  

 その声に応えれば、どこか不思議そうにこちらを見上げていた青い瞳にぱっと輝くような笑顔が浮かんだ。  

 「キク!」  

 「わっ!」  

 不安定に座っていた足元にじゃれつかれ、思わずよろけそうになったをどうにか持ち直す。  

 「キクいーにおい!アリー、キクのにおいスキっ」  

 「あっ、あー・・・ありがとう、ございます」  

 香のことだろうか。予想外だが、どうやら青い方の子には気に入ってもらえたらしい。  

 もう一人は・・・と視線を向ければ、変わらずにただこちらを見上げている。  

 気まずくなってにっこりと笑いかければ、ふいっと視線を外された。  

 こちらは逆に、なかなか警戒心が強いらしい。はずされた視線は、しばらくすればまたこちらを観察する。  

 あぁ・・なにやら見られている。子供というのはわからない。  

 キクキクと自分の名を呼びまとわり付く小さな身体と、じっとこちらを見続ける緑色の瞳。  

 対照的な存在だが、どちらにしても居心地が悪いことに変わりはない。  

 どう対処していいのか、ひとつとして行動が浮かばないのだ。  

 これが大人相手であれば、茶を出すなりしてもてなすことも時事の話題を出すこともできるのだが、子供相手の話題作りなんて想像もつかない。  

 だからといって、いつまでもこんな玄関にいていいわけでもないだろう。  

 (お茶・・いえ、お菓子なら・・)  

 「・・・甘いもの、食べますか?」  

 食べ物で懐柔とかどうなんだろうとは思うけれども、お菓子!?と目を輝かせた青と、口には出さないものの、僅かながらも嬉しそうに目を瞬かせた緑に自分の判断が間違っていなかったこと知った。  

 そのことに安堵し、今用意しますからと台所に向かう。  

 どうぞ。と促せば、ひょこひょこと居間を通り過ぎ台所まで後を付いてきた2人に何故か待っていろということも出来ず、居心地の悪さを引きずったまま棚を開ける。  

 確か、もらい物のカステラがあったはずだ。  

 箱を取り出し、中身を切り分ける。  

 自分ひとりでは余る量だったから、無駄にならずに済みそうなのは幸いかもしれない。  

 何とはなしに食べ損ねた昼食の変わりに、自分の分も切り皿に乗せた。  

 「どうぞ」  

 リビングへと持って行き、なるべく小さめのフォークを選んで皿に添える。  

 ジュースなんて気の効いたものはない。好むかどうかは分からなかったが、とりあえず麦茶を注いでみた。  

 カステラに暖かい緑茶を添えるよりはましだろうと、その程度の考えだが。  

 「いただきます!」  

 「・・・いただきます」  

 元気にがっつく青い子と、拙いながらも懸命に行儀よくあろうとフォークを操る緑の子。  

 麦茶も、一瞬変な顔はしたがそれでも文句も言わずに飲んでいるので問題ないのだろう。  

 その様子を確かめてから、菊も自分の皿に手を伸ばす。  

 しっとりとした甘みと僅かなざらめの食感がほどよいここのカステラが好みだったということを、そういえば昔これを手土産に持ってきてくれた元担当に話したことがある気がする。それを、彼は覚えていてくれたのだろう。

 あれほどせっつくようにしてきた電話と来訪を最近ではしてこなくなったことに今更ながら気付く。頑なな菊の態度に諦めてくれたのだろうか。編集者として才能のあった彼には、もう自分など見ずもっと可能性のある人間を相手にして欲しいと願う。こんな、もう何も価値のない人間にかかずらっているよりも。  

 「おいしいねっ!」  

 青い子供が満面の笑みが菊を見上げる。  

 「よかったですね」  

 そう言って微笑めば、その顔は更に喜色で彩られた。  

 「ファニーのおかしもスキだけど、これもスキ!」  

 ファニー・・・あぁ、フランシスさんのことか。  

 そういえば、よく色々なものを作ってくれていたっけ。それは、今も変わらないらしい。  

 「ファニーのつくるアイスもスキ!」  

 焼き菓子にケーキにクッキー。甘いにおいをいつもさせていた彼は、その特技を思う存分発揮しているようだ。

 尽きることのない青い子供の話に時折相槌を打ちながら、カステラを食べる。

 一人延々としゃべっていたのに、一番に食べ終わったのは青い子供だった。

 目の前の皿を空にし、じっとこちらを見る子供に菊は困ったように小首をかしげる。

 「・・・食べますか?」

 菊の皿には、まだ一切れと半分残っている。

 あまり食欲もないし、ならば欲しいと思っている相手に食べてもらった方がいいだろう。

 「いいの!?」

 まん丸の青い瞳がキラキラと輝いた。

 いいですよ、とうなずこうとした時。

 「アルっ!」

 けれども、こちらに手を伸ばした子供の行動を止めたのは、同じく幼い子供の声だった。

 「おまえのぶんは、もうたべただろ!それはキクのぶんだ」

 年齢よりもよほどしっかりした声が弟と叱る。

 お兄さんなんですねーと、顔には出さないが思わず感心してしまった。こんなに小さいのに。

 でも、叱られてしまったほうの子供は、一瞬兄のその言葉に驚いたように青い宝石をこぼれそうなほど見開いたあと薄っすらとその瞳に水気を滲ませた。

 あぁ、泣いてしまうだろうか。泣いてしまうのは少し困る。どうしたらいいか分からないからだ。

 緑の子供も引く様子はないしと困惑し視線を彷徨わせていた菊は、緑の子供の皿も何時の間にか空になっていることに気が付いた。

 そうだ、ならば・・・

 「みんなで分けましょうか」

 そういえば、驚いたように緑の瞳がこちらを向く。

 「でも・・・」

 「いいですよ。私はあまり食べられませんから、食べてもらえるとありがたいです」

 残っていた一切れをフォークで半分に割り、片方を弟に残りの片方を兄の皿に。自分の前に残っているのは、食べかけの半分だけだ。

 半分に切ったカステラを皿の上に置いてあげると、泣き出しそうだった青い子供の顔がぱっと晴れる。先ほどまでのしかめっ面からは想像出来ないほどの変わりように菊は先ほどとは別の感心してしまった。

 「ほら、これでみんな同じですよ」

 目の前には、半分ずつのカステラ。子供騙しのような理屈に怒るかな?と思いはしたものの、何やら彼なりに考えたのだろう。納得したようにまたフォークに手を伸ばしてくれるのを見て、思わず安心した。

 それから何も言わず3人で、残り少しになったカステラを食べる。残り半分だったカステラを食べながら、菊は不思議な思いにとらわれていた。

 何故だろう。気のせいだろうが、先ほどまであまり食の進まなかった残り半分の小さなカステラは、菊の皿からもあっという間に無くなっていた。

 カステラを食べ終え、することもなくなったが放っておくわけにはいかない。

 おもちゃなどないので、とりあえず白い紙とえんぴつを渡してみた。絵を描くのはすきかと聞けば、片方からは元気な片方からは控えめな同意を得られたので安心する。

 色鉛筆なんてものもないので、赤いボールペンと青いボールペンが唯一の彩色道具だ。

 それでも子供たちは、文句も言わずに紙に何やらを描き始める。

 小さい子向けのアニメのキャラクターのようだが、菊には何がなんだか分からない。それでも、彼らが楽しそうだからまあいいかなんて思いながら、少し離れたところに座椅子をおいて彼らを見る。

 「ちがう!なんでマルからあしがでてんだよ!ヘンじゃんか」

 「なんだよ!アーティだって、ヘタくそじゃん!」

 「おれよりアルのがずっとヘタくそだろ!とししたのくせに!」  

 騒がしいなぁ。騒がしいのに、別に煩いとは思わなかった。  

 緑色の子も、自分がそばにいるときよりもよほど生き生きして楽しそうだ。間にはいっていく術も見当たらないし、楽しそうならばそれでいい。

 目の前で、何やら兄弟が言い争いをしながら絵を描きあっている。どちらが上手いとか下手とかそんなささいなことだ。

 とろんと、瞼が落ちる。  

 こんな時間に眠くなるなんて。最近は、夜だってまともに眠れないのに。  

 あぁ、でもなんだか逆らえない心地よさだ。  

 まだ兄弟はなにやら言い争っている。とめる必要もなさそうなほど微笑ましい言い合い。  

 きっとそれが、彼らなりのコミュニケーションなのだろう。  

 そんなことを考えながらその様子を眺めていたら、本当に思考が途切れだした。  

 窓から入る光は暖かい。  

 網戸から流れ込む風は暑くもなく寒くもなく。まるで、眠気をいざなうように肌に触れる。  

 あぁ、眠い。  

 子供の相手なんて、慣れないことをしたからだろうか。  

 たいしたこともしていないはずなのに、ただお菓子を食べて彼らを眺めていただけなのに。  

 そういえば・・買い物にいかなければいけなかったんだった・・・  

 そんな意識を最後に、菊の記憶はぷっつりと途切れた。

 

 

   

 

 

 

   

 久しぶりに、よく寝た気がした。  

 穏やかな、優しい時間。眠るための、当たり前の安らぎ。  

 そんなものすら、ここ数年は忘れていたような気がする。  

 誰かに呼ばれた気がして、菊は充足した気分で目を開けた。  

 「玄関の鍵あけっぱなしは無用心だと思うよー」  

 フランシスさん・・・?  

 あぁ、何故この顔がここにあるのだろう。こんな近くで、少し困ったような顔をして。  

 だって、彼は・・・  

 そこまで考えて、唐突に脳が現実を理解する。  

 「ふ・・・フランシスさんっ!?」  

 いつの間に眠ってしまったのだろう。  

 確かに、うとうとしていた記憶はあるのだが窓の外に目を向ければそこはすっかり日も落ちていた。  

 日も長くなったこの季節にこの暗闇。一体どれほど眠っていたのだろうか。こうして彼が入ってくるまで気付かないほどだなんて。  

 眠りなど、ずっと浅いものだったのに。  

 「すっ・・すみません」  

 慌てて、身を起こす。  

 「チャイム鳴らしても出てこなかったから、勝手に入ってきちゃった」  

 それにしても、と苦笑のような、でも暖かな笑みで彼は言う。  

 「懐かれたねー」  

 「え?」  

 何のことか分からず、困惑し立ち上がろうとして違和感を覚えた。  

 暖かい何かを側に感じ、自分の身体の左右を見る。  

 「・・・え?」  

 ぴったりと寄り添って眠る幼い体。  

 僅かな布越しに伝わってくる子供特有の暖かさは、夢の中でみた幸せともいえる感覚に酷似していた。  

 小さな手のひらが、自分の服の両側を握り締めている。  

 きゅっと握られたそれを思わずじっと見つめた菊の胸の奥で、とくりとどこか気恥ずかしいけれども安堵のような穏やかな想いが鼓動した。  

 「いやー、兄弟になると好みも似てくるもんなのかね」  

 自分で毛布を掛けた覚えはない。フランシスもどうやら今来たところのようだし、だとしたらこれはこの子たちが掛けてくれたものなのだろうか。  

 「悪かったね、急に」  

 二人を見下ろしていると、静かな声がフランシスから発せられた。  

 「でもさ、本当に菊しか頼めるやついなかったから・・勝手だとは思ったけど」  

 優しい手つきで、二人の髪をなでる。見下ろす視線は、あの頃にはなかった類の優しさを含んでいた。  

 「こいつらはね、ジャンヌの姉夫婦の子供なのよ」  

 ジャンヌ・・  

 思い出すのは、芯の通った内から溢れ出す美しさを持った女性の顔。今はいない、特別な人。  

 「もう1年位前かな。事故で・・さ。両方とも、親いなかったし」  

 そういえば、聞いたことがある。両親がいないながらも、姉妹二人で懸命に助け合って暮らしていたと。  

 そうか。  

 だから、彼がこの子達を引き取ったのか。  

 「仕事の間はどうしても面倒は見れないし、かといって知らないやつに、こいつら預けたくないし」  

 彼だって若い。いきなり2人の父親になることは難しいだろう。それでも、彼はこの2人を見捨てては置けなかったのだ。  

 「それでも、今までは在宅の仕事とか増やして何とかやってたんだけど、ちょうど、フェリシアーノから菊のこと聞いてさ」  

 勝手だと思ったけど、とフランシスは言う。本当に、勝手だ。  

 「無理なら無理でいいから本当に無理になるまで、こいつらの面倒見てやってくれない?」  

 スミレ色の瞳が、こちらをじっと見つめる。  

 断るだなんて、思ってもいないくせに。  

 「分かりました・・いいですよ」  

 ため息と共に、了承の言葉を吐き出した。  

 「ありがとうっ!菊」  

 「あなたのためじゃないですよ。この子達のためです」  

 一応のように言ってみたら、にっこりと笑われた。なんだか手のひらの上で踊らされているようだ。  

 でも、まぁいい。  

 どのみち、やることもないのだ。  

 それに、思った以上に子供というものも悪くはないのかもしれない。  

 何よりも変えがたい、優しい眠りをくれたお礼に何かを返せるのならばそれでいい。  

 自分の服の裾を握り締めている小さな2つの手のひらに自分の両手を重ね、菊は久しぶりの心からの笑みを浮かべた。