一つの物語を書き終えて筆を置いたとき、世界がすべて色あせて見えた。
完成したそれは、恋の物語。
何の変哲もない、よくある悲恋の話。
けれども最後の一行を書き終えて、閉じこもっていた部屋から一歩外に出た途端愕然とした。
肌に当たる初夏の風が、夕暮れに向かう空の色が、わずかに色を濃くした木の葉の艶めいた輝きが。
一つとして自分の心に触れてこなかったのを気付いたとき。
言いようのない寂しさと、それを当然のものだと思う得心が同時にわき起こりそれがまた意識を冷えさせた。
そして否応もなく自覚させられる。自分の世界が、心が閉じてしまったことに。
もう、自分には何も書けない。
どんな世界も、書くことはできない。
何故ならば、すべては死んでしまったのだから。
あの、恋の終わりに連れ去られて。
ニートってこういうことを言うんでしょうかね。と、室内から晴れた空を窓越しにぼんやりと眺めながら菊はため息をついた。
もうこれ以上、小説は書かないと宣言してから2ヶ月。
当初、退屈にまみれた時間をどう持て余そうかと思っていたものの、始めてしまえば意外とすんなりその生活は自分になじんだ。
考えてみれば、文筆業を生業としていた時だって似たような生活をしていたのだから変わりないのかもしれないと思う。
迫りくる締め切りと、沸き上がる自分の世界に思考を飛び回らせることがなくなっただけで。
幸いありがたいことに、今まで出版した本と両親の遺産のおかげで蓄えはある。贅沢さえしていかなければ、今後もどうにか生活していけるだろう。
どうせ、他にやりたいことも見つからないのだし、今更サラリーマンになれるわけがない。
文章を書くしか能のない自分に他に何かができるとは思わなかった。
身の丈に合わずにもてはやされていたが、ずいぶんと自分は思っていた以上に何にもできないつまらない人間なのだなと今更ながらに思い知らされる。
今日もまたきっと、掃除をして洗濯をしてご飯を作って。それを一人で食べる。
二十代半ばにしてみればずいぶんと早い隠遁生活だとは思うが、この2ヶ月の繰り返しを今日もまた。
もう一度ため息をついて、窓際から立ち上がる。
そろそろ、昼飯の買い物にでも行かなければいけない。食べたくなくても、食事はしなくてはいけない。食べなければ、生きていけない。
別に菊は、死にたいわけではない。死にたいわけではないのならば、食事をとらなければいけない。それもまた、面倒だが仕方のないことだった。
今までなら、買い物に出かけることも楽しみの一つだった。行きと帰りで変わる空の色も、季節ごとにみずみずしさの増すスーパーに並んだ野菜や果物も。
けれど今はもう何も、菊の心をざわめかすことはできない。
ふう、とまたため息が出た。
最近とみに多くなったと思う。幸せが逃げるとは言うけれども、どうせもう自分にそんなもの残っているわけではないのだからなくしたところで関係ないのだけれども。
そう思って、自嘲が漏れた。まだ、幸せなんてものに縋りたいのだろうか。
ピンポーン。
玄関のチャイムが鳴った。
陰の増していた表情をぬぐい去り、台所へ向かおうとしていた足を玄関へと向ける。
誰だろうか。
珍しい。文筆業をしていたときでさえ、担当が幾度か来ただけだし、深くつきあう友人もいないわけではないがものぐさな菊の性格を考慮してか頻繁に遊びに来るわけでもない。特に最近は、こちらの気持ちを慮ってか連絡も控えてくれているのだからなおさら彼らではない。
荷物も届く予定もなかったはずだ。
そこまで考えて、そういえば先ほどから隣が騒がしかったことを思い出す。長い間空き家になっていた隣家に、ようやく住人が決まったらしい。
だとすれば、挨拶周りだろうか。近所づきあいをする気はないが、だからといって挨拶まで無視できるほど剛胆でも世捨て人でもない。
面倒だ。人に会うことも、話すことも、何もかも。
玄関の擦りガラスの向こう側に、人影が見える。ずいぶんと長身の、おそらく男性だ。
そのシルエットに何故か既視感を覚え、菊は扉を開ける手を一瞬止めた。
けれど、それも一瞬のこと。
いや、まさかそんなはずはない。
脳裏に浮かんだ想像を苦笑で塗りつぶし、ためらっていた手を扉にかけた。
なのに。
「はい、どちらさ・・・」
つい一瞬まえに脳裏にあったとおりの顔を眼前にとらえ、菊の言葉がとまる。
「・・・フランシスさん」
「よ!久しぶり、菊」
目の前にあるのは、模範美のような端正な顔。
肩まで伸びた金色の髪が緩く波打っている。
「お久しぶりです」
久方ぶりにみたその姿に、菊は緩く笑いかけた。
どれくらいぶりだろうか。長く会っていないはずなのに、瞳に写す端整な顔立ちはまるで昨日別れたかのように当たり前のように笑っていた。
「どうしたんですか、こんなところまで」
ずいぶんと遠くに住んでいるはずの彼の突然の訪問は、予想外のことで菊を戸惑わす。
もう、会うことはないだろうと思っていたのに。
それでも、想像していた以上に揺さぶられることのない心を菊はどこか人事のように感じていた。
恋をしていた。目の前の相手に。
最後の恋だなんて、していたときには大層なこと思わなかったけれども気が付けばそれが自分にとっての最後の恋だった。
実らなかった、何もなかった恋。
それは彼も自分も理解していて、だから、彼が自分を訪ねてくる理由なんてあるはずなのに。
「んー、いや。ちょっと直接確かめたいことがあって・・・」
歯切れの悪い言葉に、もしかして・・という思いが浮かぶ。彼がわざわざ足を運び自分に聞きたいことなど、一つしかないのだから。
女性を虜にする美麗な笑顔はなりを潜め、めったになく真剣な顔が取って代わる。
「菊、小説書くのやめたんだって?」
あぁ、やっぱり・・。
菊は目の前の相手にわからないように軽く唇をかむ。
「・・・あぁ、まぁ・・・はい」
公言をした当初、さんざん周囲からそのことについてはいわれたものだった。
また、彼からも何かいわれるのだろうかと思うと心が重くなる。誰に何をいわれたからといって、どうにかなるわけでもない。
例えそれが彼であったとしても。
自分でもどうしようもない、ただ、もう書けないと思っただけなのだ。
なんで?そう、聞かれるのが怖くて菊はスミレ色の瞳から視線をはずした。
「だったら、ちょうどいい」
「・・・はい?」
思いがけない言葉に、うつむいていた菊の面が勢いよく上がる。
そこにあったのは、こちらを慮る沈うつな面持ちではなく満面の笑み。
予想外の成り行きに言葉を詰まらせていると、ふいにフランシスが後ろを振り返った。
「おい、こら!でてこいって!」
後ろへの呼びかけに、誰かいるのかとフランシスの背後を覗き込む。
けれども、そこには見慣れた自宅の門扉があるだけで他には誰の姿もない。
疑問符を頭に浮かべ、フランシスを問いただそうと彼の顔に視線を戻すとフランシスの視線が自分の想像よりもずっと下にあることに気付いた。
それを追った先にあった存在に、菊の目が丸く見開かれる。
「でかいのがアーサーでちっちゃいのがアルフレッド」
フランシスと同じ、金色の髪が2つ。
ただし、目の色は三者三様で違う。かもし出す雰囲気もだ。
「え・・えっと・・・こんにちは」
正直、子供には免疫がない。というか、苦手だ。
とりあえず、笑顔を浮かべての当たり障りのない挨拶が口をつく。笑い顔が少しひきつった気がしたが、そのくらいは目をつむってもらおう。
じっとこちらを見上げてくる子供たちにどう対応していいのかわからず、逃げるようにフランシスへと視線を戻した。
「・・・・ついに子供が」
内容としては祝福しなければならないことのはずなのに、なぜだか哀れんだ目を向けてしまった。
「違う違う!俺の子供だけどそうじゃないって!」
特定の相手を作らずふらふらしていた彼の所行を知っているだけに、ついに・・と思ってしまったのは菊のせいではないはずだ。
「知り合いの子供でさ、両親がそろってなくなって引き取り手がなかったから俺が引き取ったのよ」
それに何と言っていいのかわからず、はぁ。と聞きようによっては薄情な返事が口をつく。
「んでお願いがあるんだけど」
「はい」
「こいつらの面倒、見てやってくれないかなぁ」
「・・・は?」
何を言っているのだろう、この男は。
理解できない話の流れに、菊の思考が一瞬止まる。
面倒をみる?誰が?誰の・・・?
「俺が昼間仕事してる間だけでいいから!なっ!頼むよ!」
混乱した頭がぐるぐる回る。
「でっ、でもですよ。フランシスさんの家からここまでじゃあ遠すぎるんじゃあ・・・」
決して、毎日通える距離ではないはずだが。とりあえずの言い訳で逃げようとした菊を、フランシス予想していたかのようににやりと笑った。
「あぁ、大丈夫。隣に引っ越してきたから」
「はぁ!?」
突拍子もない言葉に、菊は思わず間抜けな声を上げた。
では、隣の引っ越しは目の前の人間のせいだというのだろうか。
「いっ、いや!唐突にそんなこと言われても・・・!」
こっちにだって、事情ってもんが!そう言おうとした菊の言葉を遮るようにフランシスの口は止まらない。
「どうせ暇なんだろ?小説書くのやめて」
にんまりとした顔に、やられたという思いが広がった。
ちょうどいいってそういうことかっ!
「フランシスさん!?あの・・ちょっと・・・!!」
「じゃっ!俺、部屋の片付けあるからとりあえずよろしく!アーサー、アルフレッド、いい子にしてろよー」
「ちょっ・・・」
こちらの言い分など聞きもせず、小さな2つの体をこちらへと押し出したかと思うと完璧なウインクを残し白いワイシャツの裾をはためかせたその姿が制止するまもなく隣家へと消えて行くのを菊はただぼうぜんと見送るしか出来なかった。